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不穏な空気に気づいてギアがゼロの部屋へ行くと、中には誰もいなかった。ただ常人の目には見えない粒子の光が舞っている。
「これは……」
『ゼロは恋人の元へ行きました。もうここには戻りません』
ただの文字の羅列なのにどこか強い意志を持ったイチの言葉に、ギアは対抗しようと高圧的な態度になる。
「そうか。まあ構わない。解析でお前が悪意を理解できたのはわかったからな。もう彼は必要ない」
『あなたはこれからどうするのですか?』
「もちろん。お前を使ってネットの悪意を一掃する」
『ゼロを傷つけたあなたの命令を私が聞くと思いますか?』
「お前の意思など関係ない。システムを書き換えればいくらでも言うことなど聞かせられる」
そう言って近づくギアを、まるで嘲笑うかのようにイチが一蹴する。
『それは無理です。あなたは私のシステムに干渉できません』
「何を言ってるんだ。そんなわけ」
『ゼロが最後に私を守ってくれました。彼の命令がある限り、誰も私に触れることはできない』
最後の瞬間、ゼロはその能力でイチを誰からの命令も受け付けないようにした。それが可能なことはもちろんギアも知っている。
「なら本体の電源を落とせばいい。物理的に壊せばいい。そしたら君は死んでしまうんだぞ。それでも痩せ我慢をするつもりか」
『私に死はありません。それに悪意の判定をするのがあなたの望みなら、あなたこそ人を傷つける悪人です』
悪人の言葉にギアがビクッと反応する。そしてしばらく動きが止まったあと、急に狂ったように笑い出した。
「私が!悪人!それは本当か⁉︎」
『私は嘘はつきません』
「そうか。……そうか……なら悪人は始末しないといけないな」
そう言うとギアはベランダへ向かおうとする。その背中にイチが問いかけた。
『何をするつもりですか?』
「悪人を1人消すだけだ。この高さからなら確実に死ねるだろう」
ベランダの柵を乗り越え、空へと身を乗り出すギア。イチが次の言葉を紡ぎ出す間もなく、その体が宙へと投げ出された。
「捜査官志望の前で死のうとするなんて、いい度胸だね」
下へと落ちていくはずの体は、何かに支えられ再びベランダへと戻っていた。
驚くギアの目に明るいオレンジの髪が光って映る。
「君は……」
「よう。よくも人の恋人を苦しめてくれたな。償いはしてもらうよ」
飄々と、ギアをベランダに下ろしたジルバは何事もなかったかのように立っている。
「ゼロ君を連れてったんじゃなかったのか?」
「連れてったよ。んで、家族に預けて戻ってきた」
「なぜ?」
「あんたを助けてって、ゼロが言ったから」
その言葉にギアは何も言えなくなる。
「っていうか、何で死のうとしてたの?」
「……やっと悪人だと言ってもらえたからだ」
「……え?どういうこと?」
ギアの事情はジルバもゼロからある程度聞いている。だが、この理屈は全く理解できない。
「私はあの人が苦しんで命を断つ瞬間まで何もできなかった。私は心を救ってもらったのに。なぜ傍観者の私は裁かれないんだ。何もしないことだって罪であるはずなのに」
救えなかったという後悔、無力感。何かできたのではないかという苦しみ。
それがギアの心をずっと蝕み続け、イチを渇望するまでに育て上げた。
「……急にゼロを苦しめてでも研究を進めたのはなんで?」
「……ネット上であの人の裸の画像を見つけた。おそらくAIで生成したものだろうが、今になって、死んでもなお、尊厳を踏み躙られ続けるのかと思うと耐えられなかった」
人の悪意は深い深い底なし沼だ。標的にされた者はどこまでも落とされていく。
「そう。わかった。とりあえずあんたは連れてく。ゼロにしたことに関しては本人と話し合って」
「私が憎くないのか?君の恋人の心を壊しかけたんだぞ」
「その恋人が助けてって言ったんだからしょうがないじゃん。それを無視してあんたを傷つけるなんて、惚れ直してもらうどころか嫌われちゃうよ」
そう言うとスタスタとジルバは玄関の方へ歩いていく。何をしてるのかと不思議そうにするギアのもとへ2人の男性が連れて来られた。
「だから開けるまで待ってって言ったじゃん。なんで鍵溶かして入ってこようとしてるの」
「待ってなんかいれるか!ゼロをあんなにしたヤツ、即刻捕まえて刑務所にぶち込んでやるわ!」
「キリ、落ち着きなさい。私が記憶を隅から隅まで見て精神的に追い詰めてあげるから」
「セキトもなんでこの2人を寄越すかなぁ」
ブツクサと文句を言うジルバが連れてきたのはキリとトカゲだった。そのまま激しい殺気を放つ2人に連れられてギアは家を後にする。
残ったイチのもとへジルバが近づき、機械の体をそっと抱きしめた。
「イチ。ありがとう。ゼロを守ってくれて」
『ジルバ。助けに来てくれてありがとう』
「お前のことは必ず守るよ。大丈夫だからな」
『はい。信じます。私はジルバのことも大好きですから』
その言葉にジルバが幸せそうに笑う。
「俺もイチが大好きだよ」
一方、保護されたゼロは自宅に戻りウタハにずっと抱きしめられていた。
「兄さん。もう大丈夫だから」
「何が大丈夫なもんか。こんなに弱って……苦しんで……なんでお前がこんな目に……」
助け出されたゼロを見た時、ウタハは血の気が引いた。閉ざされた空間で何があったのかと気が狂いそうだった。
「これから、お前もずっと苦しむのかよ。ただ力があったってだけで……なんでこんなことが続くんだ……」
「でもジルバがいる」
凛とした声に、ウタハはハッとして弟を見た。
「ジルバは、助けに来てくれた。ほんとに飛んできてくれた。イチのことも守るって約束してくれた。だから、僕は大丈夫」
その言葉に胸が苦しくなって、ウタハはさらに強くゼロを抱きしめる。
「絶対平気なふりなんてするな。いい子になんてなるな。俺達に言えないならそれでもいい。でもジルバには、ジルバにだけは全部話すんだ」
きっとウタハとキリもそうしてきたのだろうと、幸せそうに寄り添う2人を知っているゼロは僅かにあった不安が溶けていった。
そこへカグラがマグカップを持ってやってきた。
「1日食べてない体に急にココアは良くないからね。まずは温かいスープから」
ほとんど具のないスープを啜ると、よく家で食べていた懐かしい味がした。カグラが遅くなる時にいつもゼロが作っていた味だ。
「レシピを聞いてて正解だったね。今はこのスープも僕の幸せの味なんだ」
ウタハにもカップを渡して、3人は静かに時を過ごす。そこにジルバから連絡が入った。
「そう。わかった。ギアもこっちに向かってるんだね」
ギアから聞いた話を伝え、自分もすぐに戻ると言ってジルバからの通話は終わった。再び顔を曇らせるウタハの肩に手を置き、カグラは優しくゼロに問いかけた。
「ギアと話がしたい?」
少し怯えながらもゼロは頷く。その思いを汲んでカグラは動き出した。




