第3話 壊れていく日常
翌朝。
一条智則は、いつもより少し早く目を覚ました。
「……ん」
薄暗い部屋。
障子の向こうから、朝の光が淡く差し込んでいる。
智則は布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。
身体が重い。
熱があるわけではない。
風邪でもない。
ただ――学校へ行きたくなかった。
「……休みたいな」
小さく呟く。
その言葉は、誰にも届かない。
昨日、泥だらけにされた上履き。
机の落書き。
腕に残る青い痣。
思い出すだけで、胸の奥が重くなる。
このまま布団を被ってしまおうか。
体調が悪いと言えば、母は休ませてくれるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
だが――。
「……駄目だ」
智則はゆっくりと身体を起こした。
「行かないと」
一度休めば、次の日はもっと行きづらくなる。
授業にも遅れる。
家族にも心配をかける。
それに。
自分より辛い人なんて、きっとたくさんいる。
「これくらいで休むのは……駄目だよな」
誰に言うでもなく呟き、智則は制服へ着替えた。
◇
「智則」
朝食の席。
母の声に、智則は箸を止めた。
「何?」
「顔色が悪いですよ」
「……そう?」
「ええ」
母は心配そうに智則を見る。
「体調が悪いのなら、今日は――」
「大丈夫」
智則は少し早口で答えた。
「昨日、ちょっと寝るのが遅かっただけだから」
「本当に?」
「うん」
また嘘をついた。
最近、嘘が増えた。
学校では教師に。
家では家族に。
何もない。
大丈夫。
平気。
その三つを、何度口にしただろう。
「ごちそうさま」
智則は席を立つ。
「行ってきます」
玄関で靴を履く。
扉を開ける。
朝の空気が頬に触れた。
空は青い。
今日も、いい天気だった。
「……行くか」
智則は歩き出した。
◇
通学路を歩いていると、見慣れない建物が目に入った。
入り口には、大きな文字でこう書かれている。
『神格鑑定局』
「……神格鑑定局?」
なんだろう、ここ。
少し気になったが、学校に遅れるわけにもいかない。
智則はそのまま建物の前を通り過ぎた。
その名前だけが、妙に記憶の片隅に残った。
◇
学校へ到着する。
校門。
昇降口。
廊下。
一歩進むたびに、胸の鼓動が少しずつ速くなる。
教室の前で立ち止まった。
扉の向こうから笑い声が聞こえる。
「……」
智則は一度、深呼吸した。
そして扉を開けた。
何も起きない。
誰もこちらを見ない。
智則は少しだけ安心した。
自分の席へ向かう。
机にも落書きはない。
「……よかった」
思わず声が漏れた。
椅子を引く。
座ろうとした。
その瞬間。
――ガタンッ!
「うわっ!?」
椅子が大きく滑った。
智則の身体が後ろへ倒れる。
背中を床へ強く打ちつけた。
「っ……!」
息が詰まる。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
そして。
「ぶはっ!」
笑い声。
「引っかかった!」
「マジで座るとは思わなかったわ!」
教室の後ろ。
昨日の三人が笑っていた。
椅子の脚には、細い紐が結ばれている。
智則が座る瞬間に引いたのだ。
「……」
智則は床に倒れたまま、それを見つめた。
周囲の生徒たちも見ている。
笑う者。
目を逸らす者。
何も言わない者。
「おい一条、大丈夫か?」
一人が笑いながら近づいてくる。
「悪い悪い。冗談だって」
「……冗談」
「そうそう」
肩を叩かれる。
「そんな怖い顔すんなよ」
智則は何も言わなかった。
怖い顔なんて、していない。
怒ることすらできなかった。
「……どいて」
「あ?」
「椅子、戻すから」
一瞬。
男子生徒の笑顔が消えた。
「何その言い方」
「え?」
「俺ら、心配してやってんだけど?」
「……ごめん」
反射的に謝った。
なぜ自分が謝っているのか。
智則自身にも分からなかった。
「ならいいけど」
三人は笑いながら離れていく。
智則は椅子を起こした。
背中が痛い。
制服についた埃を払う。
誰も助けてはくれなかった。
――いや。
違う。
助けようとした人は、いたのかもしれない。
ただ。
誰も動けなかった。
自分と同じように。
◇
昼休み。
智則は一人で弁当を食べていた。
教室の隅。
なるべく目立たないように。
早く食べてしまおう。
そう思っていた。
「一条」
声がした。
箸が止まる。
顔を上げる。
三人。
「……何?」
「ちょっと来いよ」
「今、昼ご飯――」
「いいから」
断れない。
智則は弁当箱の蓋を閉じた。
「……分かった」
連れて行かれたのは、校舎の端にある階段だった。
昼休みには、ほとんど人が来ない。
「なあ一条」
「何?」
「お前さ」
一人が智則の肩へ腕を回した。
「先生に何か言った?」
「……言ってない」
「本当に?」
「うん」
「昨日、担任と話してたよな」
智則の心臓が跳ねた。
見られていた。
「上履き洗ってた時」
「……何も言ってない」
「嘘つくなよ」
「本当だよ」
「じゃあ何話してた?」
「転んだって……」
「は?」
「僕が転んで、上履きを汚したって言った」
三人は顔を見合わせた。
数秒の沈黙。
やがて、一人が笑った。
「なんだ」
「ちゃんと分かってんじゃん」
肩を強く叩かれる。
「っ……」
「これからも余計なこと言うなよ?」
「……うん」
「聞こえねえ」
「分かった」
智則は俯いた。
拳を握る。
悔しい。
怖い。
逃げたい。
それでも。
何もできない。
「じゃあ戻るか」
三人が歩き出す。
その時だった。
一人が智則の鞄を見た。
「そういえばさ」
「……?」
「今日、財布持ってる?」
智則の身体が固まった。
「……なんで?」
「ちょっと貸してよ」
「嫌だ」
言葉が出た。
自分でも驚いた。
三人も止まった。
「……今、何て言った?」
智則の喉が鳴る。
「これは……駄目だよ」
「は?」
「お金は……」
怖い。
脚が震える。
それでも。
「……貸せない」
沈黙。
次の瞬間。
――ドンッ!
「ぐっ!」
背中が壁に叩きつけられた。
肺から空気が漏れる。
「調子乗んなよ」
胸ぐらを掴まれる。
「名家の坊ちゃんだからって、偉そうにすんな」
「そんなこと……」
「金くらい持ってんだろ?」
「……これは、僕の――」
「うるせえ」
拳が振り上げられた。
智則は反射的に目を閉じた。
だが。
「――何してるの?」
声が響いた。
三人の動きが止まる。
階段の上。
女子生徒が立っていた。
第1話で、机の落書きを見て声をかけてくれた少女だった。
「先生、呼ぶけど」
「……チッ」
胸ぐらから手が離れる。
「行こうぜ」
三人は階段を下りていった。
智則は壁にもたれたまま動けなかった。
「一条くん」
少女が近づく。
「大丈夫?」
「……うん」
「大丈夫じゃないでしょ」
「……」
「やっぱり、いじめられてるんだよね?」
智則は答えなかった。
「先生に言おう」
「駄目」
即答だった。
少女が目を見開く。
「なんで?」
「もっと酷くなるかもしれない」
「でも、このままだって――」
「お願い」
智則は俯いた。
「……誰にも言わないで」
少女は何も言えなかった。
長い沈黙。
智則は無理に笑う。
「助けてくれて、ありがとう」
そして。
ほんの少しだけ気が緩んだ。
「……ほんま、おおきに」
「……一条くん」
「あ」
智則は顔を背けた。
「また出た」
少女は一瞬だけ黙り。
それから、小さく笑った。
「そっちの話し方の方が、自然なんじゃない?」
「……そうかな」
「うん」
その言葉に。
智則はほんの少しだけ、救われた気がした。
◇
その日の夜。
智則は自室で財布を開いた。
中には、千円札が一枚。
硬貨が数枚。
「……」
今日、守った金。
たったそれだけ。
なのに。
手が震えていた。
「怖かったな……」
声に出した瞬間。
目の奥が熱くなった。
「……っ」
智則は慌てて目を擦る。
泣くな。
これくらいで。
泣くな。
「僕は……大丈夫」
また。
いつもの言葉。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
何度も自分に言い聞かせる。
だが。
その夜。
智則は、なかなか眠ることができなかった。
布団の中で身体を丸め。
明日の学校を考え。
震えていた。
そして彼は、まだ知らない。
今日。
初めて「嫌だ」と言えたこと。
その小さな抵抗が――。
彼の日常を、さらに危険な方向へ動かしてしまうことを。




