第2話 言えなかった言葉
放課後の教室には、夕暮れの光が差し込んでいた。
窓の外では、運動部の掛け声が響いている。
野球部。
サッカー部。
陸上部。
誰かが笑い、誰かが仲間の名を呼ぶ。
そんな声を聞きながら、一条智則は自分の席に座っていた。
「……ない」
机の中を探る。
もう一度。
鞄の中も確認する。
教科書。
筆箱。
ノート。
だが――ない。
「……上履き」
智則は小さく息を吐いた。
まただ。
これで三度目だった。
以前は、別の教室の前に置かれていた。
その前は、男子トイレの隅。
今日はどこだろう。
智則は鞄を持ち、教室を出た。
廊下を歩く。
階段。
昇降口。
靴箱。
ない。
「……はぁ」
ため息が漏れた。
先生に言えばいい。
頭では分かっている。
家族に相談してもいい。
それも分かっている。
だが――。
『告げ口した』
そう言われるのが怖かった。
今より酷くなるかもしれない。
だから智則は、今日も自分で探す。
校舎の裏。
体育館の脇。
ゴミ置き場。
そして。
「……あった」
校舎裏の水道。
濡れた上履きが、地面に転がっていた。
泥がついている。
智則はしばらく、それを見つめた。
「……洗えば、まだ使えるか」
しゃがみ込む。
蛇口をひねる。
冷たい水が流れた。
泥を落とす。
手が濡れる。
制服の袖にも水が跳ねた。
それでも智則は、黙って洗い続けた。
「一条?」
背後から声がした。
智則の肩が跳ねる。
振り返る。
担任の教師だった。
「こんなところで何してるんだ?」
「……別に」
「それ、上履きか?」
「はい」
「どうしてそんなに汚れてる?」
智則は答えなかった。
教師の視線が、濡れた上履きへ向く。
そして智則へ戻る。
「一条」
「……転びました」
「転んだ?」
「はい」
「上履きだけが?」
智則は黙った。
嘘が下手だった。
昔からそうだ。
「何かあったのか?」
優しい声だった。
だからこそ。
一瞬だけ、言いそうになった。
――助けてください。
喉まで出かかった。
だが。
「……何もないです」
智則は笑った。
「僕が不注意だっただけなので」
「本当に?」
「はい」
教師はしばらく智則を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「何かあったら言えよ」
「……はい」
智則は頭を下げた。
「ありがとうございます」
教師が去っていく。
足音が遠ざかる。
智則は再び蛇口へ向き直った。
水が流れている。
泥が落ちていく。
「……言えるわけないじゃん」
小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
◇
家へ帰る頃には、空は暗くなっていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
母の声。
智則は靴を脱ぎ、屋敷へ上がる。
「遅かったですね」
「ちょっと学校で」
「何かあったのですか?」
「……何もないよ」
また嘘をついた。
母は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
智則は自室へ向かう。
鞄を置く。
制服を脱ぐ。
そして鏡の前で止まった。
「……」
右腕。
袖の下に、青い痣があった。
昼休み。
廊下で肩をぶつけられた。
偶然ではない。
分かっている。
智則は痣を指で押した。
「っ……」
痛い。
だが、声は上げなかった。
「……これくらい」
大丈夫。
そう言い聞かせる。
もっと辛い人はいる。
自分だけが苦しいわけじゃない。
学校へ行けている。
家もある。
食事もある。
家族もいる。
だから。
「……僕は、まだ大丈夫」
智則は長袖の部屋着を着た。
痣を隠すように。
◇
夕食後。
智則は縁側に座っていた。
夜風が庭を抜ける。
空を見上げる。
京都の夜空。
星は少ない。
それでも、いくつかは見えた。
「……綺麗だな」
智則は膝を抱えた。
しばらく、何も考えずに空を見る。
学校のことも。
机の落書きも。
濡れた上履きも。
腕の痣も。
全部忘れたかった。
「いつか……」
ぽつりと声が漏れる。
「遠くに行ってみたいな」
京都の外。
日本の外。
もっと遠く。
見たことのない景色。
大きな山。
広い海。
満天の星空。
写真でしか見たことのない世界。
「……まあ、僕には無理か」
智則は苦笑した。
自分は平凡だ。
特別な才能もない。
勇気もない。
誰かに助けを求めることすらできない。
それでも。
「一回くらい……見てみたいな」
誰も知らないような景色を。
智則は、そう願った。
この時の彼は知らなかった。
いつか本当に――。
地平線の彼方まで広がる大草原を。
夜空を埋め尽くす無数の星々を。
雲より高い山々を。
同心円状の水路に囲まれた巨大都市を。
凍てつく大地を。
燃え盛る火山を。
深い海の底を。
そして、人類がまだ見たことのない世界を。
その目で見ることになるなど。
知るはずもなかった。
ただ今は。
十四歳の少年が一人。
小さな庭の縁側で、夜空を見上げていた。
「……明日も学校か」
智則は立ち上がる。
そして屋敷の中へ戻った。
明日も。
きっと今日と同じ一日になる。
そう思っていた。
だが――。
少しずつ。
確実に。
智則の日常は、壊れ始めていた。




