第1話 名家に生まれた凡人
新作です。
ぜひ、読んでみてください!
第1章 平凡だった少年
京都府京都市。
古い町並みと新しい建物が入り混じり、長い歴史を今に残すこの街で、一人の少年が暮らしていた。
名は―― 一条智則。
十四歳。
市内の中学校に通う、ごく普通の中学二年生である。
ただし、彼の「家」だけは普通ではなかった。
「智則。背筋が曲がっていますよ」
「……はい」
朝食の席で母に注意され、智則は慌てて背筋を伸ばした。
古い木造の屋敷。
広い庭。
長い廊下。
床の間には、智則には価値も分からない古い掛け軸が飾られている。
一条家。
かつて五摂家の一つとして知られた名門の流れをくむ、由緒ある家系。
少なくとも、智則は幼い頃からそう聞かされて育った。
礼儀を重んじること。
人前では姿勢を正すこと。
目上の者には敬意を払うこと。
食事の作法。
言葉遣い。
家に伝わる歴史。
そうしたものを、智則は物心ついた頃から教え込まれてきた。
だからなのだろう。
十四歳にしては、少し堅い。
学校の友人からも、そう言われたことがある。
もっとも――。
今の智則に、友人と呼べる相手はほとんどいなかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関で靴を履き、智則は外へ出た。
春の京都。
朝の空気は少し冷たい。
智則は通学鞄を肩に掛けながら、学校へ向かって歩き出した。
道中、何人もの生徒に追い抜かれる。
「おはよう」
智則が声をかけても、
「……ああ」
返事は短い。
あるいは、返事すらない。
もう慣れていた。
智則は目立つ少年ではない。
運動が得意なわけでもない。
勉強が飛び抜けてできるわけでもない。
絵が上手いわけでもない。
楽器が弾けるわけでもない。
喧嘩が強いわけでもない。
何か特別な才能があるわけでもなかった。
名家の生まれ。
それだけ。
むしろ、その名字のせいで面倒なことの方が多かった。
「おい、一条」
校門を抜けた直後だった。
後ろから声をかけられ、智則の肩がわずかに強張る。
振り返る。
三人の男子生徒。
同じ学年。
智則は小さく息を吸った。
「……何?」
「今日、宿題やってきた?」
「やったけど」
「見せて」
「でも、自分で――」
「見せて」
声が低くなる。
智則は黙った。
数秒。
そして鞄からノートを取り出す。
「……はい」
「最初からそうしろよ」
ノートを奪われる。
三人は笑いながら校舎へ向かっていった。
智則は、その背中を見つめた。
「……返してとは、言ってないんだけどな」
小さく呟く。
聞こえないように。
聞かれないように。
智則は昔から、争いが苦手だった。
誰かを殴ることも。
怒鳴ることも。
強く言い返すことも。
できなかった。
優しい。
そう言えば聞こえはいい。
だが智則自身は、自分のことをそう思っていない。
――ただ、怖いだけだ。
教室へ入る。
自分の席へ向かう。
そして、足を止めた。
「……またか」
机に落書きがされていた。
油性ペン。
消えにくいやつだ。
智則は鞄を置き、濡らした布を取り出す。
最近は、最初から持ち歩いている。
机を拭く。
何度も。
何度も。
黒い文字が少しずつ薄くなる。
「一条くん」
声がした。
智則が振り返る。
女子生徒が一人、少し心配そうに立っていた。
「先生に言った方がいいんじゃない?」
「……大丈夫」
「でも」
「ほんとに大丈夫だから」
智則は笑った。
笑えているかは分からない。
「おおきに」
「……え?」
「あ」
智則は一瞬、固まった。
「いや……ありがとう」
女子生徒は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
智則は再び机を拭く。
京都に生まれ、京都で育った。
普段は標準語で話しているつもりでも、気が緩むと昔から聞き慣れた言葉が出る。
家では特にそうだった。
「……消えないな」
黒い跡が残っている。
智則は諦めて席についた。
窓の外を見る。
青い空。
白い雲。
今日も、普通の一日が始まる。
智則はそう思っていた。
授業を受けて。
昼休みをやり過ごして。
放課後になれば家へ帰る。
そして明日もまた学校へ来る。
そんな日々が続くのだと。
少なくとも、この時の智則は信じていた。
自分が特別な人間になることなどない。
英雄になることもない。
世界を救うこともない。
剣を握ることも。
魔法を使うことも。
龍王と肩を並べることも。
神話に名を残すこともない。
ただ平凡に生きて。
平凡に大人になって。
いつか、この苦しい日々も昔話になる。
そう信じていた。
だが――。
この少年は、まだ知らない。
自分の人生が、まもなく終わることを。
そして。
その終わりが――
最下層から始まる、長い逆転劇の入口になることを。




