第99話 継承の朝
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
夜が明けた。
城下町には、重たい静けさが広がっていた。
栄善が亡くなったという知らせは、すでに町全体に行き渡っている。
病に倒れた末の死──そう伝えられていた。
それでも、人々の表情には簡単な納得だけでは割り切れない影があった。
「……栄善様、もういないのか」
「ついこの前まで、普通に話してたのに……」
悲しみは、言葉にならないまま町に沈んでいく。
手を合わせる者もいれば、ただ黙って空を見上げる者もいる。
その場に残っていたのは、言葉にならない喪失だけだった。
──その知らせが町に広がるより、少し前のこと。
お城の中で、ひとつの別れが静かに告げられていた。
「……トワちゃんが……そんな……」
お菊の声は、かすかに震えていた。
私は、涙をこぼすお菊のそばにそっと寄り添う。
言葉を探しても、それ以上は見つからなかった。
ただ、時間だけが静かに過ぎていく。
やがてお菊は、小さく息を吐いて──
「……杏歌様……知らせてくださり、ありがとうございます……」
そう言って、深く頭を下げた。
握り締めた手は、まだわずかに震えている。
それ以上、言葉は続かなかった。
ただ、別れだけが静かにそこに残っていた。
そして、その喪失がまだお城に残るまま──城下町では、新たな噂が広がり始めていた。
「……次の殿が変わるらしいぞ」
「血統じゃなくなる話、本当なのか……」
「そんなこと、今まで一度もなかっただろう」
不安と戸惑いが、悲しみの上に重なっていく。
その中へ、哀伝が歩み出た。
「……哀伝様だ!」
その声は、警戒ではなく、いつものような明るさを含んでいた。
その空気のまま、一人が少しだけ声を整えるように口を開く。
「……で、その話って本当なのか?殿が変わるってやつ」
「……哀伝様が、なぜ前へ……」
ほんの一瞬──町の空気が揺れた。
その中で、哀伝は真っ直ぐ前を見据えたまま、口を開く。
「……僕が、次の殿になる」
その言葉に、町がどよめいた。
ざわめきが少しずつ落ち着いていくのを待ってから、哀伝は静かに続ける。
「……みんなも知ってる通り、僕は羽田家の血筋ではない。血統もない」
町の人々は、息を殺すようにして、その言葉に耳を傾けていた。
「でもね、僕はこの国が大好きなんだ。町のみんなも、お城のみんなも……栄善が守ってきたこの桂ノ国が、本当に好きなんだ」
一度、言葉を切る。
「この国を守る覚悟はある」
その一言は、静かに、けれど確かに場へ落ちた。
再び訪れた静寂は、先ほどよりも深かった。
哀伝はもう一度、ゆっくりと息を吸う。
「だから、みんなに頼みがあるんだ」
視線を真っ直ぐに向ける。
「栄善の遺志は、僕たちが継ぐ。だから──僕に、この国を任せてくれないかな」
哀伝の真っ直ぐな眼差しに、迷いはなかった。
町の人々は涙を拭いながら、その言葉をただ受け止めていた。
そこにあるのは拒絶ではなかった。
この国を背負うと決めた一人の男の覚悟を、ただ静かに見守るような空気だった。
それも当然のことだった。
ここにいる者たちは、ただの民ではない。
市場で顔を合わせ、交易の段取りを交わし、困りごとがあれば共に知恵を出し合ってきた者たちだ。
川の水車が止まれば職人を呼び、値が揺れれば言葉を尽くして折り合いをつける。
名を呼び合い、冗談を投げ合いながら──同じ日々を積み重ねてきた関係だった。
だからこそ──その沈黙は拒絶ではなく、揺らぎだった。
「……哀伝様、本気なんだな……」
その言葉が、誰かの喉からこぼれるように落ちる。
それは、疑いではなく、確かめるような声だった。
やがて──
「……哀伝様は、よく市場に来ては、この町のことを真摯に考えてくれていたよな」
「難しい値段の交渉でも、私たちの話を最後まで聞いて、ちゃんと折り合いをつけてくれた」
ぽつり、ぽつりと声が落ちていく。
「逃げなかったのも、知ってる」
「……哀伝様の言葉なら、信じられる……」
重く沈んでいた空気が、少しずつ変わっていく。
町の中にある“記憶”が、同じ方向を向き始めていた。
血統ではない。
そこにあったのは、積み重ねてきた時間だった。
そして最後に、一人が低く言った。
「……哀伝様、この国をよろしく頼みますよ」
その言葉が、静かに落ちる。
やがて──
ゆっくりと、頭を下げる町の人々。
一人、また一人と、その動きは広がっていく。
大きな声はない。
けれどそれは、確かに“受け入れ”だった。
「……哀伝様、私たちも協力します。前にあなたが言ってくれたように──共に、この町を、この国を良くしていきましょう」
哀伝は、深く頭を下げた。
「……みんな、ありがとう」
それ以上の言葉は、すぐには出なかった。
胸の奥で、何かが込み上げる。
けれど、それを押し込めるように、ゆっくりと息を整える。
顔を上げたときには、もう“殿の顔”に戻っていた。
その様子を、私たちは少し離れた場所から見守っていた。
桂ノ国に、新たな殿が立った。
──それは、確かに始まりだった。




