第100話 遺志を継ぐ者たち─新しき時代へ─
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
夜は、静かだった。
今日のざわめきが嘘のように、お城の中はひどく静まり返っている。
遠くで風が木を揺らす音だけが、かすかに響いていた。
私は、人気のない廊下を歩く。
……いる気がした。
理由なんてない。
でも、私の直感がそう告げていた。
少し歩くと、薄暗い廊下の窓際に人影がある。
月の光が、その背中だけを静かに照らしていた。
「……哀伝」
「……杏歌……」
私は、そっと隣に腰を下ろす。
哀伝は、窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……ここから、町が全部見えるんだね……」
「……えぇ、そうね」
言葉を交わすたびに、白い息が夜に溶けていく。
哀伝は視線を動かさないまま、静かに続けた。
「……僕、本当は……怖いんだ……」
一度、言葉が途切れる。
「あのときは、ああ言ったけど……本当は怖くてたまらない」
私は何も言わず、その言葉を受け止める。
哀伝の声だけが、静かな夜に落ちていく。
「……血統で続いてきたこの国を……本当に僕が、守っていけるのかって……」
その言葉は、わずかに震えていた。
「……僕が、栄善の守ってきたこの国を、築いていけるのかって……」
私はそっと、哀伝の肩に頭を預ける。
夜の静けさだけが、二人の間に落ちていく。
「……哀伝ならやれるわ」
短く、それだけ。
一度言葉を区切ってから、もう一度だけ続ける。
「大丈夫。それに、哀伝は一人じゃない。私がいる」
「……杏歌……」
私と哀伝の視線が、静かに交わった。
哀伝が、ゆっくりとこちらに向き直る。
「……杏歌。僕の選んだ道は、きっと険しい。これから先、何度も壁にぶつかると思う」
一度、息を吐く。
夜の静けさが、その言葉の隙間に入り込んでいく。
「……それでも」
わずかに目を伏せ、そしてもう一度、私を見た。
「僕は、進むよ。栄善が築こうとしたこの国を、背負っていく」
その声に、先ほどまでの震えはなかった。
「その上で──」
ほんの一瞬だけ、言葉を選ぶように間が落ちる。
「……僕は杏歌と一緒なら、どんなことでも乗り越えられる。杏歌がいるから無敵になれる」
その言葉は、昔の記憶ごと胸の奥に沈んでいく。
「……僕の選んだ道に、ついてきてくれないかな……」
そして、哀伝は真っ直ぐに私を見据えた。
「僕と、結婚してください」
月明かりの下、その瞳は揺らがなかった。
私は一瞬だけ息を呑んで、それから小さく笑う。
「何言ってんのよ、哀伝」
少しだけ視線を逸らし、それでもすぐに戻す。
「私以外に、哀伝と結婚する人なんているはずないじゃない」
夜の静けさが、ふっと緩む。
「もちろんよ。一緒に、この国を守っていきましょう」
一歩だけ近づく。
「妻として、あなたを支えるわ」
「……杏歌……」
月明かりの下、二人の影が静かに重なる。
触れた唇のぬくもりが、言葉の続きをすべて語っていた。
***
哀伝の即位の儀式が執り行われた。
桂ノ国の殿──糸宮・哀伝。
この国は、静かに新しい時代へと歩みを進めることになる。
羽田家の血に頼らない、初めての継承。
祝福の声が広がる中、茶々蔵はゆっくりと哀伝のそばへ歩み寄った。
一度だけ、その姿を確かめるように見つめる。
そして、何も言わぬまま、そっと哀伝を抱きしめた。
長い沈黙のあと、低く絞り出すような声が落ちる。
「……哀伝……お前は……」
一度、言葉が途切れる。
「……お前だけは……わしより長生きしてくれの……」
それは願いというより、祈りに近かった。
失われてきた時間の、その果てに残されたひとつの願い。
哀伝は、一瞬だけ目を伏せる。
そして静かに、茶々蔵の背に腕を回した。
「……僕は、この城一番のやんちゃ坊主だよ」
小さく息を吐くように笑う。
「茶々蔵を置いて、先に逝ったりなんかしないよ」
その声は軽いようで、確かな重さを持っていた。
――蛍火がいなくなったあの日も。
――栄善を見送ったあのときも。
この腕は、ただ見送ることしかできなかった。
だからこそ、この温もりだけは、どうしても離したくなかった。
やがて、茶々蔵はゆっくりと腕をほどく。
その顔には、わずかに皺を緩めたような笑みが浮かんでいた。
「……お前を叱ってばっかおったがの……」
一度、言葉を切る。
「……哀伝、立派になったのぉ……」
その声は、どこかやわらかくほどけていた。
「茶々蔵〜、いつまで僕のこと子供扱いしてるの〜」
軽く笑う声が、空気をやわらかくする。
そのやり取りに、ほんの一瞬だけ──確かな日常が戻る。
祝福の声が、遠くから静かに響いていた。
──桂ノ国は、新しい時代へと踏み出した。
けれどその始まりは、驚くほど静かで、あたたかいものだった。
そしてその光の奥には──もう戻らない名を、それぞれが胸に抱えていた。




