第96話 撫子の簪
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
冷たい夜風が頬を刺す。
けれど、胸の奥に小さな希望があった。
空を見上げれば、雲の切れ間から満月の柔らかな光が差し込み、暗闇に淡く道を照らしていた。
「絶対に見つける」──その想いが、私たちの足を止めさせない。
「栄善はお団子屋さんと雑貨屋さんにも行ったって話してくれたの!だから、そのお店も回ってみましょう!」
私の言葉に、みんなは力強く頷いた。
夜の町を照らす月明かりと提灯の光の下、私たちは一歩一歩、トワちゃんの行方を追う。
町の細い路地や辻をくまなく進むけれど、闇は深く、トワちゃんの姿はどこにも見えなかった。
遠くから、風に混ざる波の音が少しずつ近づいてくる。
私たちは町を抜け、やがて波打ち際まで辿り着いた。
「トワーーー!!」
哀伝たちが必死に呼びかける。
荒れた波が岸を打ちつけ、夜風と潮の匂いが胸の奥まで冷たく染み込む。
トワちゃんのいない海は、まるで心の奥の暗さを映しているかのようだった。
私たちは顔を見合わせ、小さく頷く。
そして、最後の祈りを胸に、秘密基地へと歩みを進めた。
『あの場所は私にとってかけがえのない、忘れられない大切な場所になった』
……大丈夫よ。
だって、栄善が前にこう言ってたもの。
きっと、トワちゃんはここにいる──
私たちは息を整え、慎重に山道を進み続けた。
静かな夜に、足音だけが響く。
そのとき、団丸がふいに声を上げた。
「……ん?おいら、なんか踏んだぞ?」
「何を踏んだんだよ、団丸?」
七左衛門の問いかけに、団丸が提灯の灯りをそっと下ろし、足元を照らす。
その光に、踏まれた何かがかすかに映る。
「……え……違う……よね?」
哀伝が戸惑いながら、小さな声を零す。
足元を見ると、草履が片方だけ、静かに落ちていた。
「……違うわよ……このような草履、誰だって履いてるもの。まだ、誰のものかは分からないわ」
「……そうだよね」
小さく呟きながらも、胸の奥のざわめきは消えない。
──そうよ。
草履なんて、誰だって似たようなものを履いてる。
自分に言い聞かせるように、私はそっと息を整え、再び歩みを進めた。
足元の土を踏みしめるたび、かすかな音が静かな夜に溶けていく。
やがて、荒れた波の音が、一層強く耳に届いた。
潮の匂いが濃くなり、冷たい風が頬を刺す。
……もうすぐ、崖。
提灯の灯りが頼りなく揺れ、足元の影を歪ませる。
一歩踏み外せば、何が起きるか分からない──そんな緊張が背筋をなぞった。
そのとき。
「……何かしら……?」
ふいに足が止まる。
満月の淡い光の下、地面のどこかで──一瞬、何かがきらりと光った。
「……どうしたの、杏歌?」
哀伝の声が、静かな夜に溶ける。
「今、何か……光った気がして……」
言い終えるより早く、私たちは視線を交わし、同時に駆け出していた。
静まり返った山道に足音だけを響かせながら、光のあった場所へと近づく。
提灯の灯りが揺れ、地面を照らす。
「……ん……これ……」
小さく息を呑み、私はそれを拾い上げた。
指先に触れたのは、ひやりと冷たい感触。
提灯をかざした瞬間、その灯りが手の中を静かに照らし出した。
「……これ……って……」
誰の声だったのか、分からなかった。
ただ、その場にいた全員が──同じものを見て、同じ結論に辿り着いていた。
胸の奥が、強く締めつけられる。
脳裏に、栄善の声がよみがえる。
──トワに簪を贈ったのだ。私が選んだ簪を。
──撫子の花が描かれた、小ぶりの簪を渡したんだ。
……嘘よ。
そんなはず、ない。
だって──
今、私の手の中にあるのは。
撫子の花が描かれた、その簪だったのだから。
「……だ……」
哀伝が、掠れるような声で呟いた。
「……これ、トワがつけてた簪だ……」
その一言が落ちた瞬間、場の空気が音を失った。
団丸も、七左衛門も、言葉を返すことができないまま、ただ小さく息を呑む。
誰もが分かってしまったのに、誰もそれを認めたくなかった。
この簪が落ちていた、そのすぐ先は──崖だった。
誰も、その先を覗き込むことができなかった。
満月だけが、何もなかったように夜を照らしている。
その光の下で、私たちはただ立ち尽くしていた。




