第94話 涙の御誕辰祭
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
特別室に駆け込むと、哀伝や七左衛門、茶々蔵、そして重役たちが、息を潜めたまま、緊迫した面持ちで見守っていた。
空気が、重い。
誰もが、言葉を失っている。
「栄善……!」
息を切らしながら、その名を呼ぶ。
私は呼吸を整えつつ、すぐに御典医たちへと視線を向けた。
御典医の一人が、手早く小さな包布で傷口を押さえながら、声を荒げた。
「止血を急ぐでござる!このままでは危うい!」
その言葉に、胸が強く締め付けられる。
私はすぐに冷やした布を手に取り、栄善の額にそっとあてがった。
青竹で作られた簡易の止血具を御典医に手渡し、傷口の補助に回る。
煎じた薬草の小瓶が、机の上にずらりと並ぶ。
御典医は手早く傷に薬を塗り、私はその隣で必要な薬を素早く差し出し、布の交換もすぐに行う。
「まだ……諦められない……絶対に!」
誰に言うでもなく、言葉が零れる。
震える手を押さえつけながら、布を握り直した。
周りのみんなも必死に動いている。
誰もが祈るように、ただひたすらに。
必死に動かす手は、汗で湿り、緊張で微かに震えていた。
時間だけが、ゆっくりと、残酷に流れていく。
「栄善……目を覚まして……!」
私は心の中で叫びながら、栄善の手を握り、微かな呼吸を感じ取ろうと必死だった。
その瞬間、御典医の一人が声を絞り出すように、静かに呟いた。
「……栄善様は……もう……」
音が、消えた。
何も、聞こえない。
「……いや」
違う。
そんなはず、ない。
「……嘘よね……?」
視界が滲む。
「……なんで……」
声にならない声を絞り出し、膝から力が抜けて崩れ落ちそうになる。
世界がふっと止まったかのように感じた。
頭の中が真っ白になり、何が起きたのか、理解が追いつかない。
だって目の前には、まるで眠るように穏やかに微笑む栄善がいるのだから。
その微笑みは、現実の残酷さを覆い隠すかのようで、胸が締め付けられ、言葉も出なかった。
茶々蔵が、崩れ落ちた。
「……栄善……わしは……二度も……!」
声にならない叫びとともに、涙を流す。
蛍火。
そして、栄善。
その背を、時雨、春風、柚寧が必死に支える。
茶々蔵……
どうして……どうして私たちの大切な人たちを、いつも奪っていくの……?
周囲は、静まり返ったまま。
息をするのも苦しいほどだった。
哀伝も七左衛門も団丸も、ただ茫然と立ち尽くしている。
涙が頬を伝い落ちる。
声にならない声を喉で絞り出し、わずかに震える唇で、私は叫ぶように問いかける。
「ねぇ、誰か……答えてよ……」
光も、影も、音も消え、ただこの静寂と失ったものの重みだけがそこにある。
その中で──
「……僕……トワに……伝えてくる……」
哀伝の声だけが、静かに響いた。
顔を上げると、彼は俯いたまま立っている。
その横顔は、見たことがないほどに、静かだった。
哀伝は、重い足取りで特別室を出て行った。
「……トワちゃんにって……大丈夫なの……?急にそんな……」
私は、急に栄善が亡くなったと知らされるトワちゃんのことを思い、胸がぎゅっと痛む。
けれど、七左衛門の言葉に、私は言葉を失った。
「……栄善が刺されて倒れてるとき……栄善はトワの腕の中にいたんだ……」
「……え……それって……どういうこと……?」
困惑する私に、団丸が答える。
「これはおいらたちの推測だけど……栄善は小梅に刺されそうになったトワを助けたんだ……」
トワちゃんが……小梅に刺されそうになった……?
何もかもが理解できず、頭の中は混乱でいっぱいだった。
「……小梅は、今どこにいるの……?」
私の問いかけに、柚寧が静かに答える。
「……小梅は今、別室で見張りをつけて隔離されているわ…… 放心状態に陥っていて、とても話ができる状態ではないものだから……」
言葉を聞いても、胸のざわつきは収まらない。
目の前の現実と、頭の中の混乱がぶつかり合い、思考はまとまらなかった。
トワちゃんは大丈夫なのかしら……栄善のことを知ったら、どうなってしまうの……
そのとき、特別室の襖が静かに開き、哀伝が戻ってきた。
私は息を呑み、視線を彼に向ける。
「……哀伝……! トワちゃんは……大丈夫だった……!?」
哀伝は俯き、小さく息をつくように答えた。
「……ごめん。僕、トワの顔を見て直接話す勇気がなくて、襖越しに伝えたんだ……」
そのまま、言葉を重ねる。
「伝えた直後、微かに物音がしたから、きっとトワは……」
一度、言葉を切る。
「今は、一人にさせてあげようと思う」
そして、小さく息を吐く。
「……また後で、様子を見に行ってみるよ……」
七左衛門と団丸が、そっと哀伝の肩に手を添える。
私はその言葉を胸に刻み、静かに目を閉じた。
冷たい空気も、室内の重苦しい沈黙も、胸の奥でそっと響き続ける。




