第9話 雨の日の記憶―やまない雨―
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
あのときの雨音が、今の雨音と重なる。
「……杏歌……」
「どうしたの?春風?」
春風は私のそばに来て、傷のある左肩のあたりに手を添えた。
その表情は苦しさで歪んでいて──私の目を見据え、低く呟いた。
「……本当にすまなかった。あのとき、私がもっと……」
「春風……私なら、本当に大丈夫よ。それに、春風が私の上司でいてくれるだけで、心まで救われたの」
本当にそう。
哀伝も春風も、みんなも……私のことをすごく心配してくれる。
確かに、あのときの傷は残っている。
だけど、そんなに深い傷じゃない。
体の傷は浅い。
けれど、どうしても消せない不気味な光景が、私の心の奥深くに沈んでいる。
襲撃者が刀を振り落とす瞬間に見えた、手首に刻まれた暗紫褐色の黒百合模様の入れ墨。
あの後、聞いた話では、手首に黒百合模様の入れ墨がある者は、路傍斬りだという噂があるらしい。
時折、脳裏に浮かび、ぞっとしてしまう……
もう何年も経つのにね……
私は息を整え、囲炉裏の火を見つめ直した。
その瞬間、木戸が急に押し上げられた。
「あ〜、やっぱりここにいた。って、ちょっと、春風!僕の杏歌に何やってんの!?」
そう言って中に飛び込んできた哀伝は、私の肩に手を添えている春風を勢いよく引きはがした。
「……ったく。お前は細身に見えるくせに、力が強いんだから」
「まったく、外交の上司も部下も、気が気じゃないよ」
「お前は杏歌のことになると、地の果てまで、ちょっかい出した者を追いそうだからな。じゃあ、私は行くよ。杏歌、また後でな」
そう言って春風は、仕事場へと戻って行った。
「ねぇ、杏歌。春風と何してたの?何かされなかった?」
「春風がそんなことするはずないでしょ。……ただ、傷は大丈夫かって聞かれただけよ」
私の言葉に、哀伝は真剣な表情を浮かべた。
哀伝、分かってるの。
あの日、私を守れなかったことを、ずっと背負っているんでしょう。
いつも笑顔で明るいあなたが、顔に影を落とすんだもの。
哀伝の気持ちは、しっかり伝わってる。
だから、気にしなくていいのに……
「ねぇ、哀伝……」
「ここ、痛むの……?」
哀伝は、私の左肩の傷口あたりに手を添える。
「ばかね……大したことないって、いつも言ってるでしょ……」
「本当に?杏歌、こっち向いて。僕の方を見て」
俯いて視線を落とした私に、哀伝は顔を覗き込むようにして言葉を返す。
哀伝の瞳が、私の視界を捉えた。
大きな薄茶色の瞳は、光を含んで淡く揺れ、まるで透明な水晶を覗き込んでいるみたいだった。
その視線は、冗談を言うときの笑顔とは違っていて、言葉を待つ前に、私の胸の奥に触れた。
「……んっ……」
哀伝のさらさらとした髪の毛が、私の顔に触れる。
そして、唇にあたたかな温もりが重なった。
「……ちょっ、哀伝……」
急なことで、私の思考は停止していた。
細身のくせに力強い体に、びくともしない。
私は、驚きのあまり、哀伝を……
殴った。
拳で。
ぼこっ。
「〜ったぁ、何するんだよ杏歌〜!」
「何するんだよ、じゃないでしょ〜!!本当にあんたって奴は、いつまで経ってもやんちゃ坊主なんだから!!」
「なんで?僕はしたいからしただけだよ?それに、杏歌、顔赤くなってるよ。照れちゃって、ほんと可愛いな〜」
「〜〜〜っ、うるさーい!!」
私の頬は、囲炉裏の灯火のように、ほんのりと熱を帯びていた。




