第8話 雨の日の記憶―静かな予兆―
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
しばらく歩き続けていたころ、風が急に冷たくなった。
空の青さが薄れ、いつの間にか墨を溶かしたような雲が広がっている。
その瞬間、雨の匂いが風に混ざった。
「急に降ってきたな……視界が悪い。みんな、足元に気をつけろよ」
春風のその声は、掻き消されるように雨音へと飲み込まれていく。
「春風、なんて言ったの? 僕、全然聞こえなかったんだけど!!」
ざあざあと、雨が鳴り響く。
風と雨に視界を奪われ、空はいつの間にか暗く沈んでいた。
──そのときだった。
何かが、私のすぐそばで空気を裂いた気がした。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
ただ分かるのは、左の肩と胸の間に鋭い痛みが走ったこと。
そして、何かの気配を感じて目を向けると、刀を振りかざそうとしている人物が目の前にいた。
「杏歌!!」
大きな声が耳に届き、春風が私の前に立っていた。
「春風!!」
春風は、私と襲撃者の間に割り込み、刃を受け止める。
「……うっ……」
その瞬間、春風の体が沈むように揺れた。
襲撃者との格闘の末、春風は右肩と胸の間に傷を負った。
襲撃者も、春風の腕に致命傷を与えられなかったようで、急いでこの場から撤退していく。
しかし、その足はすぐに止まり、覆われた顔の奥の目は、栄善の方を見据えているように感じた。
襲撃者は、そのまま雨の闇へと消えていった。
「……杏歌、大丈夫か?」
「春風!! ごめんなさい、私のせいで……」
「私は大丈夫だ。……お前の方は大丈夫なのか?鎖骨あたりから血が滲んでいるじゃないか……!」
「……えぇ、少し痛むけど、私のは浅い傷よ」
春風は、苦しそうに息を吐きながらも、私の肩に手を添え、傷の具合を確かめるように小袖の上から優しく押さえた。
「杏歌! 春風! 大丈夫であったか!?」
栄善の声が、雨音を切り裂くように響いた。
「栄善……!」
「おい!杏歌!傷はおいらのこれで塞げ!」
団丸が駆け寄り、手拭いを取り出して私の傷を押さえる。
「大丈夫か!?二人とも立てるか!?」
七左衛門も続いて駆け寄ってきた。
「……私は大丈夫だ。少し打撲したくらいだ。しかし、奴を取り逃してしまった……すまなかった」
春風は悔しそうに肩を落とす。
少しだけ息を詰め、栄善は言った。
「何を言う、春風。其方には杏歌を守ってくれたこと、感謝している」
栄善は、ほんのわずか視線を落とした。
「……あの者は、去り際に私を見ていた」
低く息を吐き、言葉を継ぐ。
「通りすがりに偶然遭遇しただけかもしれぬ……となれば、噂にある路傍斬りの可能性もある。いずれ、殿であるこの私を狙っていたとしても、不思議ではない……」
一瞬、言葉が途切れる。
「それが……たまたま私の後ろにいた杏歌へ向いてしまった……」
栄善の声が、急に沈んだ。
「……杏歌、すまなかったな」
「……何言ってるのよ。栄善のせいじゃないわ」
一瞬、空気が途切れた。
そのとき、哀伝の声が聞こえないことに気づいた。
……あれ?
哀伝の声がしない。
私は辺りを見渡した。
雨に打たれ、立ち尽くしている哀伝。
その顔は、いつものふざけた笑顔とは程遠く、苦しさに歪んでいた──
哀伝が、ゆっくりと近寄ってきて、私の左肩に手を添え、俯きながら言った。
「……ごめん、杏歌。守れなくて……」
今まで見たことのない、哀伝の表情。
その言葉に、言葉が詰まってしまった。
雨音だけが、やけに大きく耳に残っていた。
哀伝は、それ以上何も言わなかった。
それからしばらくの間、哀伝は私の前に姿を見せなかった。
そして、雨の日には、悲しそうな顔をするようになったの……
まったく、ばかね……私の傷なら大したことないのに。
春風は、右腕の負傷により、戦術担当としての道を歩み続けることが難しくなり、退くこととなった。
一方、私の命を救ったことで特例が認められ、希望する部署へ移動できることになった。
私は責任を感じていた。
私が、春風の未来を奪ったのではないかと。
「私のせいで、春風の人生を壊してごめんなさい!私、春風の役に立ちたい……!」
泣きながら謝る私に、春風は優しく言葉を返した。
「そんなに気にするな、杏歌。私は大丈夫だ」
「……でも……」
「なら、私は外交奉行になる道へ進む。杏歌は将来、外交だろう? 私の部下として、支えてくれないか?」
「……春風……えぇ、もちろんよ!」
その言葉に私はどれほど救われたことだろう。
そして春風は、外交使者として経験を積み、外交補佐を経て、今では外交奉行──
春風が「私の上司」ということは、私の中でとても特別な意味を持つ。
戦術担当から外交奉行までの道のりは、並々ならぬ努力の連続だったはず。
だから私は春風に感謝してもしきれない。
今では、頼れる私の尊敬する上司。
外交補佐として、春風を支えられるように、私はこれからも仕事に励む。




