第86話 偽りの文書
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
あの後も、綿花に問いかけ続けたが、頑なに口を割ろうとはしなかった。
本当は避けたかった──けれど、奉書紙を用い、この国の国家秘密を他国に流すことは、大きな罪に問われる。そう、重罪。
綿花も路傍斬りと同じく、御用牢へと収容されることになった。
綿花を連れて御用牢から戻り、再び茶々蔵の書斎に足を踏み入れる。
静かに重みを帯びた声で、栄善が口を開いた。
「綿花が初めて一人で文書を書いたのは、対縁の儀のある日より、何日も前のことだ。そのとき、私が養子であることやトワの件を文書に書き、朽葉ノ国へ情報を流したとしても辻褄は合う」
栄善は言葉を途切れさせず、静かに続ける。
「そしてあの日、突然朽葉ノ国から届いた、再び塩の増量を願う文書。今にして思えば、不自然であるとも言える。増量を願う文書が、今年は二通にわたり届いたのだからな。我が国の情報を得るためだったと言っても、決しておかしくはない」
栄善のその言葉に、私はあの日のことを思い返した。
そういえば……あの日、飛脚に文書を渡したあと、時雨が公印を押し忘れていて、綿花が慌てて文書を書き直したのよね……
けれど、公印のない文書を持った飛脚は、すでにお城を出発していた。つまり、少なくともあの日、文書は二通、朽葉ノ国に渡ってしまったことになる。
公印を押し忘れることは、国の信頼を損なう重大な過失。
けれど、朽葉ノ国は長年の付き合いがあり、融通の利く国──その甘さこそが、今回の事態の遠因となったのかもしれない。
時雨が肩をすくめるようにわずかに視線を落とし、小さく呟いた。
「……すまねぇ。綿花をここに連れてきたのは俺だ。それに、公印も押し忘れて、綿花に文書を書く隙を二度も与えちまったのも事実だ……本当に、すまねぇ……」
その様子を見た茶々蔵が、静かに口を開いた。
「時雨、顔を上げ。確かに、公印という文書にとって最も重要な印を押し忘れることは、なってはならぬことじゃ」
茶々蔵の言葉に、時雨はさらに肩をすくめる。
「しかし、わしらも人の身。誰にだって過ちはある。大切なのは、一度の過ちを二度と繰り返さぬよう、心に刻むことじゃ」
一拍、静かな間を置いてから、茶々蔵は続けた。
「人は、その経験があるからこそ学ぶことができる。ゆえにそれは“失敗”ではない。“経験”という、かけがえのない糧なのじゃ」
時雨は、すぐには顔を上げなかった。
握り締めた拳が、わずかに震えている。
その肩に、柚寧と春風がそっと手を添えた。
言葉はない。ただ、その温もりが、静かに時雨を支えていた。
茶々蔵の言葉は、私の胸の奥深くまで静かに染み渡った。
さすがは、このお城を支える家老・茶々蔵。
それは、長い歳月を生きてきた彼だからこそ紡げる、重みある言葉だった。
やがて、静まり返った書斎の中──再び栄善が口を開く。
「しかし……確実に文書を朽葉ノ国へ届けるため、正式な文書の証である封に偽文書を紛れ込ませるとは……よく考えたものだ」
その言葉に、空気が一瞬、張り詰める。
「本来なら、あの印がなければ飛脚も門番も門を通さぬ。疑う余地などない。それに、雲祈が提案してくれた糊づけの案──あれまで逆手に取ったというわけか」
……確かに。あの子、綿花は本当に賢かった。
緊張しながらも、一生懸命に任務を遂行していた綿花の姿を思い浮かべると、胸がぎゅっと痛む。
その空気の中で、柚寧と春風がそっと口を開く。
「茶々蔵……綿花は、色奉書を使って偽文書を書いていたわよね。綿花の使用記録に、不自然な点はなかったのかしら?」
「私もそこが気になっていた。今回のように複数枚を使っているのなら、蔵で松風から色奉書を受け取る際に、何らかの疑問が生じていたはずだ。通常、文書は封用と文書用の二枚で足りるからな」
その問いに、茶々蔵の表情が一瞬固まり──はっと息を呑むように声を上げた。
「そうなのじゃ!問題はまさにそこなのじゃよ!わしは週ごと、そして月ごとの使用状況を松風から報告で受け取る。もちろん、帳簿でな。それは、栄善にも共有されておる」
茶々蔵のただならぬ勢いに、思わずごくりと息を呑む。
次に続く言葉に、背筋がひんやりとする。
「綿花が文書を使用した週の報告には、おかしな点は一つも見当たらなかった。あの日は文書を書き直したため、二通分、合計で四枚の色奉書が使用されておったのじゃ」
その言葉を受け、団丸が口を開く。
「それなら……おかしな点は一つもないな」
七左衛門が続けて問いかける。
「茶々蔵、蔵の色奉書の在庫はもう確認したのか?」
「……そうなんじゃ。虎鉄から偽文書の報告を受けたあと、わしは松風のもとへ赴き、色奉書の数を調べたんじゃ……じゃが、数は帳簿としっかり一致しておった」
「……そうだったんだな」
奉書紙は、この国では栄善と茶々蔵以外、購入することはできない。
たとえ手に入れたとしても、お城の門番たちが見張っている──その目をかいくぐって通り抜けるなんて、不可能に等しいわ……
静まり返った空気の中、襖の向こうから雲祈、大納、蒼月の声が聞こえてきた。
「杏歌様〜?もうお戻りになられたのですか?外交記録、教えていただきたいです!」
「柚寧さん?こちらにおられますか?勘定の件で、伺いたいことがあります」
「雲祈と大納……本当に皆さんここにいるのかな?すごく静かじゃない?」
その声を受け、茶々蔵が書斎の中で私たちに静かに告げる。
「……よいか皆。これは、特にあの三人には知られてはならぬ。余計な心配をかけぬよう冷静を保つのじゃ」
茶々蔵の言葉に、私たちは真剣な面持ちで頷いた。
「今から、わしと栄善、そして哀伝は御用牢へ向かう。路傍斬りと綿花から話を聞くのじゃ。小梅も何か知っておるかもしれん……じゃが、朽葉ノ国に弱みを握られている以上、慎重にならねばならぬ。皆はまずは、通常の任務を遂行してくれぬかの」
茶々蔵のその言葉を合図に、私たちはぎこちなく笑みを作り、書斎を後にした。
このお城で、今何が起きているのか──落ち着かない胸の奥を、あの子たちに気づかれぬよう、静かに押さえ込むのに必死だった。




