第84話 路傍斬り
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
「僕の大切な人を、二度も傷つけるなんて──できるはずないでしょ?」
低く抑えた哀伝の声が、場の空気を震わせた。
「団丸、七左衛門。杏歌のことお願い」
その言葉に、二人は間髪入れず応じる。
「おう!もちろんだ!」
「杏歌のことは俺たちに任せろ、哀伝!」
次の瞬間、団丸と七左衛門が私の両側に回り込み、ぴたりと並んだ。
あまりにも一瞬の出来事で、何が起きたのか、理解は追いつかない。
視界の片隅で捉えたのは──
哀伝に取り押さえられ、崩れ落ちていく路傍斬り。
その手首に刻まれていた、黒百合模様の入れ墨だった。
──びゅっ! どん!
あの音は……哀伝が路傍斬りを取り押さえた衝撃の証。
哀伝……助けてくれたのね……
昨夜、哀伝が私に告げてくれた言葉が、不意に胸の奥でよみがえる。
『……もし、路傍斬りが現れても、絶対に僕が杏歌を守るから。もう二度と──杏歌に悲しい思いなんてさせないよ』
私……哀伝の存在があまりにも大きくて……朽葉ノ国に入っていたことなんて、すっかり忘れていたの……
それに……襲われたことさえ、全然気づかなかった。
あの日──私を守れなかったことをずっと背負っていた哀伝。
もう、背負わなくていいからね。
あなたの存在が、こんなにも私に安心を与えてくれるのだから。
哀伝、ありがとう。
涙で潤んだ瞳を、そっと指先で拭う。
けれど、このまま安心してはいられない。
辺りが騒然とする中、栄善が力強く声を上げた。
「華礼の式は中止する!この路傍斬りを、我が城まで連れて行く!すまぬが、その旨を朽葉ノ国の者たちへ伝令せよ!」
「はっ!」
栄善の指示を受け、数名が朽葉ノ国へと走り抜ける。
私たちは路傍斬りを取り押さえたまま、お城へと引き返していた。
胸にざわめきを覚えた栄善は、不意に視線を感じた。
覆われた顔の奥、あのときと同じ、言葉にならない視線──それが静かに彼を射抜くようだった。
***
──その頃、お城では。
塩の納期遅れの文書も無事に飛脚の手に渡り、城内は穏やかな日常に包まれていた。
だっ、だっ、だっーーーー!!
廊下を、全力で駆け抜ける足音──
「……はぁ、はぁ……」
茶々蔵の書斎の襖が物凄い勢いで開けられた。
「茶々蔵さん!!大変だべさ!!」
「んぉ!?あたたた……腰もびっくりしたようじゃ。どうしたんじゃ、虎鉄。そんなに慌てて……というか、泥だらけじゃぞ!?」
茶々蔵が驚くのも無理はない。
目の前には、泥まみれの公儀飛脚・虎鉄。
どうやら、朽葉ノ国へ文書を届けに向かう途中、ぬかるんだ道にはまって転んでしまったらしい。
「大丈夫かの、虎鉄!?昨日は凄い嵐だったからのぉ。怪我はないかの?」
茶々蔵の問いかけに、虎鉄は震える手で文書を差し出した。
文書はところどころ泥にまみれ、大切な部分まで少し破れている。
眉間には深いしわを寄せ、唇を固く結ぶ虎鉄の様子は尋常ではなかった。
茶々蔵はその姿を見て、穏やかに微笑む。
「虎鉄、心配するでないぞ。文書なら、また書き直せばよい。閉門時間まで、まだたっぷり時間はある。届くのは少し遅れるが、嵐明けの道じゃ。長年付き合いのある国じゃし、きっと分かってくれるじゃろう」
だが、虎鉄の表情は微塵も和らぐことなく、険しさを保ったままだった。
そして慌てた口調で、虎鉄は声を張り上げる。
「な、何言ってるだべ、茶々蔵さん!見てけろ、この文書を──!」
そう言われ、茶々蔵は虎鉄が差し出す破れた文書を受け取り、中身を確認した。
破れ、泥まみれで読めない箇所も多い。
それでも、文書の大まかな内容は把握できる。
「……な、なんじゃこれは……!!」
茶々蔵の声が室内に響き渡る。
「……茶々蔵さん、おら、嘘だと信じてぇだよ……」
「……うむ。虎鉄、ご苦労であった。あとはわしが引き受ける。お主は着替えて一旦屯所で待機していておくれ」
「……よろしく頼むべさ……」
虎鉄は言葉を残し、書斎を後にする。
一人になった茶々蔵は、ぽつりと呟いた。
「……これは、大変なことになったの……」
華礼の式に現れた路傍斬り。
そして、お城の中にも静かに、不穏な空気が漂い始めていた。




