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第82話 嵐の夜そばに

【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―

──華礼《かれい》の式《しき》の前日。


この日は雪混じりの冷たい雨が、お城の瓦屋根を叩きつけていた。


窓の外では風が荒れ狂い、廊下を通るたびに軋む木の音が耳に届く。


城内に流れる空気は重く、緊張で張り詰めていた。


なぜなら、今日は朽葉ノ国(くちばのくに)へ増量分の塩を運ぶ重要な任務を控えていたから。


廊下の窓から外を見つめる私たち。


荒れ狂う空を前に、茶々蔵(ちゃちゃぞう)が静かに口を開いた。


「……今日の塩の運搬は、難しそうじゃのう。飛脚たちに納期遅れの文書を届けてもらうにしても、この嵐では危険が伴ってしまう……」


茶々蔵の言葉に頷き、栄善《えいぜん》も静かに同意の声を上げた。


「そうだな。何よりも安全が最優先だ。綿花《めんか》、すまないが、明日の朝一で納期遅れの文書が出せるよう準備しておいてくれ……まぁ、風雨が止めばの話だが」


「はい。分かりました」


「そうじゃの。明日の状況次第では、また指示を変更するかもしれん。雨風が強ければ、華礼の式も、どうなるか分からんのぉ……」


茶々蔵に続いて、私も真っ暗に染まった荒れ狂う空を見上げた。


その空を見つめながら、心の中でそっと願う。

──明日よ、どうか来ないで……


***


その日の夜。


外は相変わらず、凄まじい嵐に包まれていた。


遠くで雷が瞬き、低く唸るような音は壁を伝って、体の奥まで響いてくる。


私は毛布を頭から被り、肩をすぼめるように体を丸めた。


眠りたいのに、眠れない。怖い。


激しく打ちつける雨音と風の唸りが、あの日──路傍斬《ろぼうぎ》りが現れた記憶を呼び起こす。


胸の奥の傷が、雨に呼応するようにわずかに疼いた。


手首に刻まれた暗紫褐色《あんしかっしょく》の黒百合模様《くろゆりもよう》の入れ墨。


思い出すだけで、体が小さく震えた。


だから──明日なんて、来なければいいとさえ思ってしまう。


こんな夜は、ただ静かに身を潜め、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。


目を閉じ、時の流れをじっと待っていると、襖《ふすま》の向こうから微かな声が漏れてきた。


「……杏歌《きょうか》……僕だけど……」


闇の中でそっと差し伸べられた影に、思わず力が抜け、胸の奥で小さな安堵が広がった。


「……哀伝《あいでん》……」


哀伝は私の顔を見つめ、そっと柔らかく微笑んだ。


「やっぱり杏歌、布団に丸まってた」


そのまま優しく体を寄せ、布団の中にそっと潜り込み、私のすぐ隣に収まる哀伝。


荒れ狂う嵐の音も、彼の温もりに触れるたびに、少しずつ遠くへと溶けていく。


「……哀伝……」


不安げに漏れた声に、哀伝はそっと抱き寄せ、静かに囁いた。


「……大丈夫だよ、杏歌。この嵐も……明日のことも、怖いんだよね。でも大丈夫。僕がついてる」


低く柔らかく響く声に、胸のざわめきが少しずつ静まっていく。


「……もし、路傍斬りが現れても、絶対に僕が杏歌を守るから。もう二度と──杏歌に悲しい思いなんてさせないよ」


強い決意の込められたその言葉が、胸の奥深くへと真っ直ぐに落ちていく。


哀伝は私を柔らかく見つめ、静かに言葉を続けた。


「杏歌は、雨の日が苦手だよね。悲しい出来事が、いつも雨と一緒に訪れるから……でもね、雨は本当は悲しいだけのものじゃないんだよ。僕たちにとっては、恵みの雨なんだから……」


「……恵みの雨……」


「雨が降るから僕たちは水を得られるし、この国の塩だって、雨があってこそ成り立ってるでしょ? 杏歌は幼い頃から苦手になっちゃったから忘れちゃったかもしれないけど……雨も、僕たちの生活に欠かせない大切なものなんだよ」


雨音に耳を澄ませながら、私はそっと目を閉じた。


哀伝の柔らかな声は、暗く重い夜に、そっと温かな光を差し込むようだった。


私は、大切なことを思い出す。


……そうよ、雨は怖いものじゃない。

私たちの暮らしを支え、命を潤す、恵みの雨。


手のひらで毛布を握り締め、まだ少し残る不安を抱えながらも、哀伝の存在がそのすべてを静かに包み込む。


「……哀伝、ありがとう。雨は、恵みの雨だものね。感謝しなくちゃ」


小さく呟いたその声に、哀伝はふわりと微笑む。


明日の華礼の式も──哀伝と一緒なら、きっと乗り越えられる。


そう思いながら、私は静かに深い眠りに落ちていった。

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