第81話 微かな囁き
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
「敵」についての有力な情報は、何ひとつないまま、時は静かに流れていた。
そして、栄善の御誕辰祭が、もうすぐそこまで迫っている。
そもそも──「敵」なんて、本当に存在するのかさえ分からない。
朽葉ノ国の方々だって、変わりゆく状況を恐れて、あの情報を切り札として切り出したのかもしれない……
はぁ……何を信じればいいの……
頭の中が混乱して、胸まで騒つく。
「あ〜、もう、分からないわ!」
「何が分からないの、杏歌ー?」
その絶望にも似た声に、甘く華やかな声が返ってきた。
思わず視線を上げると、そこには──
「……小梅……」
昔から知っているはずなのに、その華やかさには、つい見惚れてしまう。
紅色の艶やかな唇、柔らかく響く声。
華やかで、美しくて、存在そのものが周囲の空気をほんの少し変えてしまう。
さすがは、朽葉ノ国の姫君──
「……いや、なんでもないのよ」
「そうなの? それより杏歌、やっと哀伝と恋人同士になったんだってねー。私、あまりの遅さにびっくりしちゃったー」
……小梅のその言葉に、私は思わず固まった。
行事でしか桂ノ国に来ていなかった小梅にまで、私が哀伝のことを好きだって知られてたってこと?
強がってた私って、本当に馬鹿みたい……
思わずがくりと肩を落としたその瞬間、小梅が小さく囁いた。
「……私だって……栄善と……」
その言葉は、あまりにも小さくて私の耳には届かなかった。
聞き返そうとしたその瞬間、七左衛門と団丸が軽やかな足音を立て、私たちのそばにやって来た。
七左衛門が私たちに声をかけた。
「杏歌と小梅……こんなところで、何してるんだよ?」
「……ちょうど今、ここで小梅と会ってね。少し話をしていたのよ。七左衛門と団丸は、今から現場?」
「あぁ、もうすぐ華礼の式があるだろ? そのために、道の安全確認をしなくちゃならないからな」
──『華礼の式』
その言葉に、私の胸の奥がどくりと騒ついた。
栄善の御誕辰祭より前に行われるこの式は、殿である栄善と姫である小梅が各国の人々に婚礼の挨拶を行う儀式。
私も任務のため、その式に同行することになっている。
そう──かつて、私と春風を襲った路傍斬りが現れた、あの朽葉ノ国へ。
そんな私の様子に、いち早く気づいた七左衛門は、微笑みを浮かべながら静かに言った。
「心配すんな、杏歌。お前には、哀伝がついてるんだぜ」
七左衛門の言葉が、胸の奥にふっと灯をともすようだった。
哀伝の存在を思い浮かべるだけで、怖さや不安が薄れていく気がした。
「……えぇ、そうね」
そうして安心したように穏やかに微笑む私を見て、小梅がまた、小さく囁いた。
「……同じ顔、してる……」
今度ははっきりと、私の耳に届いた。
……同じ顔? 誰と?
気になって、また聞き返そうとした──けれど、今度は団丸の元気な声が上から降ってきた。
「朽葉ノ国への塩の増量分の運搬も、もうすぐだからな! がははははー!」
「そうだったわね。確か、華礼の式の前日なのよね」
「おう! おいらと七左衛門で道の安全は確保するから安心するんだぞ!」
その弾むような声に、思わず頬が緩む。
「えぇ、頼りにしてるわ」
そう微笑む私たちを、小梅がふと何かを思い出したかのように見つめ、口を開いた。
「そうだー。七左衛門と団丸、対縁の儀の日はありがとう。二人のおかげで、道中も安全に辿り着けたから」
「……あぁ、それが俺たちの仕事だからな」
「おいらたちに任せとけー! がははははー!」
小梅の言葉に、七左衛門は小さく微笑み、団丸は豪快に笑顔を弾けさせた。
その光景を見て、私は心の中で思ったの。
……そう。
小梅だって、決して悪い子じゃない。
ただ、朽葉ノ国の姫君であるというだけ。
けれど、栄善には愛する人がいる。
トワちゃんという、愛する人が。
哀伝たちの話によると、トワちゃんは──今でも毎日、栄善から貰った撫子の簪を大切に髪につけているそうなの。
そして、あの日──哀伝がトワちゃんを抱きしめていたときのこと。
栄善がすごい剣幕でトワちゃんを連れ去ったから、自分のせいで栄善と哀伝の仲が険悪になっていないかと、トワちゃんはずっと気にしていたみたいなの。
健気で、人想いで……本当に素敵な子。
やっぱり、この権力に縛られた世界を壊したい──
大切な人たちが、自分を押し殺して苦しむ姿を、もう……見たくない。
いつか、あの心から笑える日が、必ずまた訪れると信じて……




