第75話 静寂の夜
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
七左衛門の部屋を出ると、廊下は夜の静けさに包まれていた。
哀伝の部屋までの短い距離が、異様に長く感じられる。
「……哀伝、起きてるかしら……」
一歩一歩、呼吸を整えながら踏み出す。
襖の前に立ち、手を少し震わせながら意を決する。
夜の静寂が、私の鼓動を際立たせる。
「……哀伝……私よ……起きてる?」
声はかすかに震え、耳元で自分の鼓動が響くようだった。
私の声に応えるように、襖がゆっくりと開いた。
そこに現れたのは、驚きの色を浮かべる哀伝の顔。
「……え、杏歌……どうしたの……?」
さっき、私は哀伝の手を振り払ってしまった。
あの瞬間の自分の態度を思い出すと、胸が少し痛む。
驚くのも、無理はないわよね。
「……ごめんなさい、さっきは……ちょっと話せない?」
「……もちろんだよ、杏歌。さぁ、中に入って」
そうして、私は静かに哀伝の部屋へと足を踏み入れた。
*
哀伝の部屋に入ると、布団がきちんと敷かれていた。
寝息でも聞こえてきそうな、静かな夜の空気。
「ごめんなさい、哀伝。寝るところだったわよね」
「いや〜、それが全然寝られなくてさ……杏歌のこと、ずっと考えてたから……」
そう言葉にした哀伝の瞳は真剣そのもので、私の目を真っ直ぐに捉えていた。
「……さっきはごめんなさい、哀伝。ひどいことをしちゃったわね」
「……いいんだ。でも……杏歌、さっきなんで泣いてたの?僕、それがすごく心配なんだ……」
「……哀伝……」
あぁ、私はいつも笑顔の素敵な哀伝に、悲しい表情をさせてしまうのね。
だめよ。
私は哀伝には、いつだって笑顔でいてほしいもの。
それに──今度は私が哀伝を支える番。
もう意地を張るのは終わりにしないとね。
「……哀伝。呆れちゃうかもしれないんだけど……聞いてくれる?」
俯きながら言葉を紡ぐ私に、哀伝はいつもの眩い笑顔で答えた。
「僕は、杏歌の話ならどんなことだって聞くよ。だから僕に話してよ……心に溜めていることをさ」
「……えぇ。さっきのことなんだけど……」
私は少しずつ、さっき見た出来事を哀伝に打ち明けた。
トワちゃんを抱きしめる哀伝の姿を見て、胸がすごく締め付けられたこと。
そしてあのとき、思わず手を振り払ってしまったこと。
哀伝は何も言わず、ただ静かに、私の胸の奥にある想いを聞いてくれていた。
「……呆れちゃったでしょ?私って、こんなに女々しくて、嫉妬深い女なの……いつも強がってるくせに……本当の私は弱虫なんだから……」
すべて打ち明けた私は、哀伝の顔を見ることができなかった。
今度は私が哀伝を支える番──なんて意気込んでたのに……話せば話すほど、私って重くない!?
それにいつも哀伝に、素っ気ない態度を取っていたくせに、今さらこんなに面倒くさいことぶつけて……
あぁ……これじゃ哀伝に愛想を尽かされたに違いないわ……
それに哀伝は、トワちゃんのことを好きなのかもしれないものね……
七左衛門、ごめんなさい。
やっぱり私……自信がないわ……
けれど、私は意を決して、哀伝の顔をそっと見た。
夜の静けさが二人の呼吸と心臓の音を際立たせる。
震える心を押さえ込みながらも、勇気を振り絞って──




