第74話 僕の閃き【哀伝編】
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
夕食を終えた僕は、一人で夜の廊下を歩いていた。
「今日は外回りが多くて疲れたよ〜」
両手を伸ばして屈伸すると、ふいにあくびが出た。
夜風が肌に心地よく、気持ちがほぐれていく。
「……月、綺麗だな……」
杏歌と一緒に見られたら、どんなに幸せだろう。
そんなことを、僕はそっと思っていた。
池のほとりの近くを通りかかると、月光に照らされて、小さな影がゆらりと揺れているのが見えた。
こんな夜更けに……誰かな?
気になった僕は、足音を忍ばせながら影のある方へ歩み寄った。
*
小さな影の主は、トワだった。
その肩は小さく震えていて、僕は思わず声をかける。
「誰かいると思って来てみたら……トワ?こんなところで何してるの?」
「……哀……伝……」
声をかけると、トワの瞳に涙が光った。
「夜は冷えちゃうよ〜って……トワ、泣いてるの……?」
「いや……違うの……なんていうか、その……」
ふと向こうを見ると、月明かりに照らされた大きな影が、こちらに歩み寄ってくる。
……あれは、栄善?
はっは〜ん。
ここで僕の中に、ある考えが閃いた。
トワが髪につけている、この撫子の簪──
昨日、団丸が『今日買ったのか?』って聞いたとき、トワは『へへへ、内緒!』って言ってたけど……
僕は思った。
これは、栄善がトワに贈ったものだって。
だって、撫子の簪だよ?
撫子の花言葉は「純粋な愛」。
そして簪は、愛する人に贈るもの。
僕はこの小さな簪を見ただけで、栄善の覚悟が心の奥深くに、じんわりと刻まれるのを感じた。
──もうすぐ、対縁の儀だ。
殿である栄善が、一人の人に想いを寄せる。
その行動に、どれほど深く、揺るぎない想いが込められているのか──
ここで僕の出番だ。
きっとトワは、栄善のことを想って泣いてる。
僕の勘が、そう告げていた。
それに僕は……栄善が婚約を断るために必要な、この国の希望でもある他国との契約を、対縁の儀までに交わすことができない。
あんなに自信満々に「任せてよ」なんて言ってたのにさ……
だからせめて、栄善とトワの仲を取り持つ手助けをさせてよ。
だから──僕は、トワをそっと抱きしめた。
え?なんで、抱きしめたのって?
僕は杏歌一筋じゃないのかって?
何言ってるのみんな。
もちろん、僕は杏歌一筋に決まってるじゃん。
この気持ちが揺らぐことは、決してない。
トワは僕の大切な友達。
そして栄善は、僕の大切な幼馴染。
だけど栄善は、殿という立場上、自分の感情をあまり表に出すことができない。
身分制度という苦しい環境で育った栄善は、誰よりも優しい性格の持ち主。
それもあってか、感情を押し殺してしまう節があるんだよね。
僕が見る限り、それはトワも同じ。
二人はよく似ている。
相手や周りを大切に思うあまり、自分の感情を抑えてしまう──
だから、ここは僕が一肌脱ごうって話。
そして僕が、そっとトワを抱きしめた瞬間。
想像を遥かに超える剣幕と勢いで、栄善がトワを連れて去っていった。
僕はにやりと笑った。
「へぇ〜、栄善、やるじゃん」
僕は栄善を頼もしく思った。
愛する人のことになると、あんなふうに取り乱したりするんだね。
トワのことは栄善に任せて。
僕はぼちぼち部屋に戻るとしますか。
愛する人のことを考えてたら、なんだか無性に杏歌に会いたくなってきちゃったな〜。
杏歌のことを考えながら階段を上っていると、ふと誰かが座り込んでいるのが目に入った。
よく見ると、それは杏歌だった。
(何してるんだろう……?)
そう思いながら、僕はそっと杏歌に声をかけた。
「……あれ?杏歌、こんなところに座って何してるの?」
「……あい……でん……」
声をかけると、杏歌が泣いていた。
僕は胸が痛くなるほど心配になった。
「……杏歌……泣い……てるの?」
「……泣いて……なんかいないわ。ちょっと、疲れただけよ」
いつも通り強がる杏歌。
僕は急いで立ち上がろうとする彼女の腕を掴んだ。
「待ってよ、杏歌! 絶対何かあったでしょ? 杏歌が泣くなんて……僕、心配だよ」
杏歌の顔はすごく苦しそうだった。
そして、腕を掴む僕の手を振り払った。
「触らないで!」
その声に、僕は驚きを隠せなかった。
「……きょう……か……」
戸惑いが胸に広がる。
どうしたの杏歌……
いつもなら文句を言いながらも、僕を受け止めてくれるのに。
「……ごめん、哀伝」
そう言うと、杏歌は足早に去っていった。
一人取り残された僕は、まるでもぬけの殻になったようだった。
だって、杏歌に拒絶されたのは初めてだったから。
……それに。
杏歌の顔には、僕への「大好き」という気持ちが、やっぱり滲んでいた。
だけど、いつもと違う。
さっきの杏歌の瞳には、迷いが揺れていた。
なんでなの、杏歌……
僕は情けないな。
他の人のことなら勘も働くのに、肝心な僕の愛する人のことは、まるで分からない。
……杏歌、僕はね。
杏歌がいるから頑張れるんだよ。
杏歌と一緒だから、どんなに重い任務だって僕はやり遂げられちゃうんだ。
「さっき見た月、綺麗だったな……」
いつか、僕のこの想いが杏歌に届く日は来るのかな。
「……好きだよ、杏歌……」
僕のその言葉は、静かな冷たい夜の空気の中へ、そっと消えていった。




