第73話 頼もしい幼馴染
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
まだ、胸の奥がざわついて落ち着かない。
七左衛門に導かれ、部屋に入ると、思わず肩の力が抜けていく。
廊下で流した涙の余韻が、今も体の芯を締め付けるようだった。
七左衛門はそっとお猪口にお酒を注ぎ、私の前に置く。
「ほら飲めよ。杏歌これ好きだろ?」
「……えぇ、ありがとう、七左衛門」
喉を通るお酒の熱が、ざわつく胸の奥までじんわりと染み渡る。
少しだけ、心がほぐれるような気がした。
「それで、哀伝と何があったんだよ」
「……っ、なんで、哀伝のことだって分かるのよ……」
七左衛門は、少し間を置いてふっと笑った。
「……あのなぁ、お前と何年の付き合いだと思ってるんだよ。伊達に幼馴染やってるわけじゃないんだぜ?」
思わず、私も小さく笑う。
「……ふふっ。それもそうね」
胸の奥のざわつきはまだ消えないけれど、頼もしい幼馴染の存在が、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
私は、さっき池のほとりで見た出来事を、そっと七左衛門に打ち明けた。
「……っていうわけなの……」
私の話を聞き終えた七左衛門は、「はぁ」と小さくため息を漏らした。
「……なによ、そのため息は。呆れたんでしょ。こんなに女々しい女だったなんて」
「あぁ、お前には本当に呆れたぜ、杏歌」
「……私だって分かってるのよ。でも今すぐには立ち直れそうにないわよ……」
分かってるの。私だって。
今さら哀伝が他の誰かを好きになったとしても、元々私と恋人同士だったわけでもない。
私がぐちぐち言える立場なんかじゃないってことくらい……
胸がまた締め付けられるように苦しくなる。
その痛みから逃れるように、私はお猪口を手に取り、そっと喉へ流し込んだ。
そして、そのまま畳にごろんと横になり、右腕で顔を覆い、そっと涙と感情を隠す。
体の力が少しずつ抜け、ようやく少しだけ呼吸が落ち着く気がした。
そんな様子を見た七左衛門が、ため息混じりに呆れたように口を開いた。
「……杏歌、お前それ本気で言ってんのか?」
私は少し顔を上げ、震える声で問い返す。
「……七左衛門、それ……どういう意味よ……」
七左衛門は腕を組み、眉を寄せてしばらく黙る。
そして、ゆっくりと言った。
「お前、哀伝がトワのことを好きになったって、本気でそう思ってんのか?」
私は目を逸らし、わずかに震える手を握り締める。
「あんなに“男”って顔をして抱きしめてたのよ?それが何よりの証拠じゃない……」
七左衛門は静かに息を吐いて言った。
「……あのなぁ、杏歌。今までお前は哀伝の何を見てきたんだよ。あんなに一途に、真っ直ぐにお前のことを想ってきた哀伝だぜ?それは、お前が一番よく分かってるだろ?」
私は小さく肩を落とす。
「……それは……分かってるわ。だけど、そんな哀伝に何年も素っ気ない態度をとってきたんだもの……哀伝だって、きっともう愛想を尽かしたのよ……」
今思えば、哀伝は何年も何年も私のことを想い続けてくれていた。
そしてそれを、言葉や行動で示してくれていたわね。
なのに、私は怒ってばかりだったわ。
哀伝、あのとき、どんな気持ちだったのかしら……
私って、本当に最低ね。
完全に自分の世界に入り込んでいた私に、七左衛門は静かに言葉を続ける。
「……確かに人の気持ちは変わる。どれだけ長く想い続けていた相手でも、心がいつ変わるかなんて分からない」
その言葉が、胸に深く突き刺さる。
「だけどな、杏歌。春風も言ってたけどさ──哀伝のお前に対する想いは、そんなに簡単に崩れるものじゃないと俺は思うぜ?」
……私もそう思いたい。
だけど、あの抱きしめていた光景がどうしても頭から離れてくれない。
「……杏歌が路傍斬りに襲われたときの哀伝。交易相談役になったときの哀伝。俺は、あいつはそんな生半可な気持ちで“守る”なんて言葉を口にする男じゃないと思うぜ」
黙り込む私を七左衛門はじっと見つめて、さらに言葉を重ねた。
「それに、お前と哀伝は俺たちよりもずっと付き合いが長いだろ?お前が哀伝を信じてあげないでどうするんだよ」
その言葉に、これまでの哀伝との出来事が一斉に胸の奥へと蘇ってくる。
あの日、私を守れなかったことに苦しそうな表情を浮かべていた哀伝。
何もかも抱え込んで、苦しくなってしまう私をいつだって明るい方へと導いてくれた哀伝。
そして──胸に浮かぶのは、眩いほどの笑顔を真っ直ぐ私に向けてくれた哀伝の姿。
愛しくて、涙が止まらない。
「……哀伝……」
その名を呼ぶ声は、かすかに震え、静かな室内にそっと溶けていった。
七左衛門が、ぽつりと口を開く。
「……哀伝さ。あの例の国との交渉があっただろ?あれ、もう一歩ってところまで行ってたんだけど、次の折り合いがつかなくて、対縁の儀までに間に合いそうにないらしいんだ……」
「……えっ、そうだったのね……哀伝、あんなに頑張っていたもの。きっと責任を感じているわよね……」
前だって明るく振る舞っていたけど、結局、私の膝の上ですぐに眠ってしまったし、神経だってずいぶん使ったはず……
それに、対縁の儀に間に合わないなんて──
哀伝のことだから、私たちには弱みを見せないけれどきっと心の奥では落ち込んでいるわよね……
私はそんなときこそ、哀伝を支えてあげたい。
私はそっと畳から体を起こし、肩の力を抜いて小さく息を整える。
その、さっきとは違う落ち着いた表情に気づいた七左衛門は、お猪口を傾けながら、口角をわずかに上げ静かに笑った。
「哀伝のところに行ってやれよ、杏歌。対縁の儀も控えてるんだ。あの頭の回転が速い男も、お前がそばにいないと本領を発揮できないだろうぜ」
「……七左衛門……」
「まぁ、哀伝のことだからトワにした行動にも何か意味があるんだろうと思うぜ」
「ふふっ。そうかもしれないわね。ありがとう七左衛門。私、哀伝に会いに行ってくるわ」
「あぁ、幼馴染としてお前たちを応援してるからな!」
ありがとう、七左衛門。
私はこんな素敵な幼馴染たちに囲まれて、本当に幸せだと心から思った。
七左衛門に笑顔で見送られながら、私は静かに哀伝の自室へと向かう。




