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第72話 溶ける涙

【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―

私はあの光景に耐えられず、自室へ戻ろうとした。


けれど、足を動かそうとしても思うように力が入らない。


それでも──一歩。


無理やりにでも足を前に出す。


気づけば、胸の奥のざわつきが少しずつ痛みに変わっていた。


心の中に何かが詰まっているようで、食欲も湧かなかった。


階段にへたり込む。


「……っ」


夜の静かなお城に、私のすすり泣きがひっそりと響いた。


……やだ。


私って、こんなに泣くほど哀伝(あいでん)のことが好きだったのね。


私はずっと、哀伝は私のことが大好きだって信じていた。


ふと、昨日のことを思い出す。


町の人たちに、あんなふうに言われたこと。


そのときはただ照れくさくて、うまく受け止められなかったけれど──


気づけば私は、その言葉をどこかで信じてしまっていたのかもしれない。


哀伝とも、いずれ結婚するんだって。


……何よ私ったら、そんなことを思い込んでいたなんて。


物心ついた頃から、哀伝とはずっと一緒だった。


だから、想像もしなかった。


哀伝が、他の誰かを愛する日が来るなんて──


考えただけで胸の奥がざわつき、痛みさえ覚える。


──そのとき。


階段を上がる、ぎしぎしとした足音。


……やだ。誰も来ないで。


「……あれ?杏歌(きょうか)、こんなところに座って何してるの?」


その声に、私の心臓がばくんと跳ねた。


「……あい……でん……」


今は、哀伝に会いたくなかった。


さっきの光景が頭をよぎり、胸が押し潰されるように痛む。


「……杏歌……泣い……てるの?」


「……泣いて……なんかいないわ。ちょっと、疲れただけよ」


哀伝の顔を見ると、涙が溢れてしまいそうだった。


だから、この場から一刻も早く去りたかった。


けれど、急いで立ち上ろうとする私の腕を哀伝がしっかりと掴んだ。


「待ってよ、杏歌! 絶対何かあったでしょ? 杏歌が泣くなんて……僕、心配だよ」


その声も、ぬくもりも、今の私にはただ苦しかった。


私は腕を掴む哀伝の手を振り払った。


「触らないで!」


その声に、哀伝の表情は驚きと戸惑いで揺れていた。


「……きょう……か……」


小さく私の名前を呟く哀伝。


……ごめんなさい、哀伝。

でも、他の子を抱きしめたその手で、私は触れられたくなかった。


哀伝の着物から、微かに甘い香りが漂った。


いつもの哀伝からはしない、柔らかく温かい香り。


きっと、さっきトワちゃんを抱きしめたときの……


「……ごめん、哀伝」


戸惑いを隠せない哀伝を置き去りにして、私は足早にその場を立ち去った。


*


廊下を駆ける。


さっき哀伝から漂った香りが、また胸の奥をざわつかせる。気づけば、涙が溢れていた。


……やだ、やだ、やだ。


何も考えたくない。

何も考えられない。


私って、こんなにも哀伝に支えられていたのね……


意地を張らず、もっと素直になるべきだったわ……


走りながらそんなことを考えていると、勢いよく大きな体にぶつかった。


「……っと、びっくりした。杏歌?どうしたんだよそんなに慌てて」


「……あっ、七左衛門(しちざえもん)」


七左衛門は、涙を浮かべる私の姿を見て、何かを悟ったかのようにゆっくり口を開いた。


「……杏歌。お前、哀伝と何かあっただろ?」


図星の言葉に、胸が小さく跳ねる。


思わず目を逸らし、言葉を濁す。


「……何で、哀伝になるのよ……何でもないわ……」


……私ったら、この期に及んでまだ意地を張る気なの。


思わず、自分にため息が漏れそうになる。


そんな私の心の奥まで、七左衛門は見透かしているかのように言った。


「……ったく、杏歌は哀伝のことになると本当に意地っ張りだな」


そう言った七左衛門が、私の腕を軽く掴む。


「ちょ、ちょ、七左衛門!」


「こいよ。俺の部屋で一杯飲もうぜ。お前はどこまでも意地っ張りだからな」


「……うっ、何も言えないわ……」


私は抵抗もせず、静かに七左衛門に引かれるまま部屋へと足を運んだ。

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