第70話 騒ぎの前の静けさ
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
賑やかな朝座が終わると、城内は再び忙しさに包まれた。
それもそのはず。
対縁の儀まで一週間とあと少し──日に日に緊張が高まっていた。
それぞれが役目を胸に、足早に持ち場へと散っていく。
やがて、日が傾きはじめた頃──廊下には、柔らかな夕日の光が差し込み、静かな空気が城内を包んでいた。
私は書類を抱え、春風の書斎へと向かう。
昼間の喧騒はすっかり遠く、廊下はどこか穏やかで足音だけが響いていた。
そのとき──
「あっ、杏歌〜。お疲れ様。何してるの?」
聞き慣れた声に振り返ると、哀伝がいつもの調子で歩み寄ってきた。
「私は今から春風に書類を届けるところよ。哀伝は紐の手配と、だん吉のもとへ行った帰り?」
「そうなんだ〜。僕はさっき帰ってきたところ」
どこか気の抜けた声に、思わず口元が緩む。
「そうだったのね。哀伝もお疲れ様。ところで、綿花はどう?文書、大丈夫そうだった?」
問いかけると、哀伝は少し困ったように笑った。
「それがさ〜。綿花はほんとしっかりしてて感心するんだけど、飛脚に文書を渡したあとで、時雨が公印を押してないまま封に入れてたことに気づいたらしくてさ。慌てて書き直したらしいんだよ〜」
呆れたように笑う哀伝に、私も小さく息をつく。
「……そうだったのね。でも、綿花がいてくれてよかったわ。あの子なら、安心して任せられるもの」
「本当だよ〜。まぁ、綿花を連れてきたのは時雨だから、人選面ではさすが奉行といったところだけどね〜」
「ふふっ……えぇ、本当ね」
「それに春風も昨日、綿花に文書を教えてから気にかけてくれてるみたいで……面倒見のいい春風がいて本当によかったよ〜」
「さすがは春風ね」
私たちがそんな会話を交わしていると、現場から戻った七左衛門と団丸が、廊下の向こうから姿を現した。
「七左衛門と団丸。お疲れ様。対縁の儀の警備や動線の確認、大変だったでしょう?」
私が声をかけると、七左衛門は静かに頷き落ち着いた口調で答えた。
「あぁ。なにせ、小梅が来るからな。朽葉ノ国の姫君を危ない目に合わせるわけにはいかないぜ」
「……えぇ、本当にね。小梅に危険が及べば、朽葉ノ国との関係にも亀裂が入ってしまうものね」
その言葉に、哀伝は頭の後ろで腕を組み、少し懐かしそうに呟いた。
「小梅、幼い頃は僕たちともたまに遊んでたのに偉くなったもんだよ〜」
「おいらがまた訓練教えてやるぞー!がははははー!」
豪快に笑う団丸の声が、静かな廊下に響き渡る。
「……団丸。間違っても小梅に訓練なんか教えるなよ。朽葉ノ国の人たちに何を言われるか分からないぜ」
「ぷはははっ、本当だね!だけど団丸が小梅に訓練教えてるところを想像するだけで、僕、笑っちゃうんだけど」
「ふふっ。団丸は、いい意味で昔から変わらないわね」
「がははははー!」
そんなふうに笑い合っている中、哀伝がぽつりと呟いた。
「……だけど僕たちは、この縁談を断るんだよね」
その言葉に、廊下に漂っていた柔らかな空気が一瞬で張りつめる。
「……えぇ、そうね。小梅、どんな顔をするかしら……」
幼い頃から知っているだけに胸の奥が少し痛む。
けれど、権力に縛られず、誰もが自由に生きられる国を築くためには、この縁談をどうしても断たなければならない。
……それに。
栄善の心には、すでにトワちゃんがいる。
二人には、心から幸せになってほしい。
「……上手くいくといいな」
「……そうだな」
七左衛門と団丸が静かに言葉を交わしたその後、ふと廊下の奥に栄善の姿が現れた。
「皆、帰ってきていたのだな。ご苦労であった。……どうしたんだ。神妙な面持ちではないか。何かあったのか?」
栄善にそう尋ねられ、私は言葉が出なかった。
その沈黙を気にする様子もなく、栄善は穏やかに言葉を続けた。
「もしかして、時雨が公印を押し忘れていたことか?それなら、私と茶々蔵にも報告があったから心配ないぞ」
「……そうだったのね。それなら安心だわ」
そのとき、七左衛門が何かを思い出したかのように口を開いた。
「あっ、そうだ、栄善。俺と団丸が帰ってきたとき、たまたまトワに会ったんだ。でも、なんか心ここに在らずって感じだったんだよな。昨日はあんなに元気そうだったのに。な、団丸?」
「おう! そうなんだ! もしかしたら腹が減ってるのかもしれないから、トワによく食うよう、栄善、言っとくんだぞ!」
さっきまで張りつめていた空気が、団丸のその言葉で、少しだけ和らいだ気がした。
栄善は手を顎に添え、考え込むように呟いた。
「……そうであったのか。七左衛門、団丸、感謝する。私も後ほどトワの様子を見に行くとしよう」
「あぁ、そうしてやれよ。トワも栄善に会えただけできっと元気になるぜ」
そう言った七左衛門の言葉に、栄善はそっと、柔らかく微笑んだ。
栄善のその表情から、トワちゃんへの気持ちが自然と溢れ出ているのが伝わってくる。
……トワちゃん、どうしちゃったのかしら。
心ここに在らずって……大丈夫なのかしら。
何もなければいいんだけど……
けれど、この後あんなことが起こるなんて──私は、まったく予想もしていなかった。




