第68話 静かな夜
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
その日の夜──私はとても疲れていた。
なぜって?
それは時雨と広間を駆け回ったからよ。
あの後どうなったかって?
結局、私が捕まり、暴れゴリラに説教をくらったの。
まったく、力が強いったらありゃしないわ。
けれど、これで堂々と言えるわ。
時雨のことを『暴れゴリラ』だってね。
ふふ、まぁちょっと疲れたけど、楽しかったのよね。
哀伝と雲祈は、なんだか意気投合したみたい。
やっぱり、あの二人は気が合うみたいね。
そんなことを考えていると、私の自室に栄善の声が静かに響いた。
「杏歌、私だ。入ってもいいか?」
「栄善、もちろんよ」
静かな音を立てて、襖がそっと開いた。
「すまないな、夜遅くに」
「全然いいのよ。今日はトワちゃんと町へ出掛けたんでしょう?楽しかった?」
「あぁ、とても心に残る一日となった」
「ふふっ。そう、それはよかったわ」
「本日は一日城を空けてすまなかった。何やら、時雨が大変だったらしいな」
「そうなのよ。だから暴れゴリラって命名してやったの。そうしたら、時雨が追いかけてきたのよ?おまけに説教までされたわ」
「ふっ。そうだったのだな。しかし杏歌。案外、時雨との追いかけっこも楽しかったのではないか?」
思わず私は肩を揺らして笑った。
「ふふっ。さすが栄善ね。当たりよ。なんやかんや楽しかったのよね」
室内に漂う静かな夜の空気に二人の笑い声がゆっくりと溶けていく。
「そうだ、杏歌。皆への礼として、土産の団子を持ってきたのだ。穏花処に立ち寄ったんだ」
「もう、栄善ったら……本当に優しいんだから。ありがとう」
私は栄善からお団子をそっと受け取る。
「良かったら、栄善も一緒に食べない?今日のトワちゃんとの話も聞かせてほしいわ」
栄善は少し微笑み、頷いた。
「そうだな。せっかくだから、そうさせてもらおう」
お団子の甘い香りが静かな室内にそっと広がる。
「そういえば、哀伝たちが栄善から頼まれた山茶花団子をトワちゃんとお菊に渡してきたそうよ。美味しく食べてくれていたら嬉しいわね」
「あぁ。トワに山茶花団子の話をしたんだ。食べるのを楽しみにしていたからな。きっと、喜んでくれているであろう」
ふふっ、やっぱりみんなで楽しめるものは嬉しいものね。
「ふふっ、そうね。穏花処に行ったのね。あそこは景色もすごく綺麗だから、トワちゃんもきっと喜んでいたでしょう?」
「あぁ、うっとりすると言っておった」
私はそっと笑みを浮かべる。
栄善の穏やかで幸せそうな表情に自然と胸が温かくなる。
「……それに、秘密基地にも行ったのだ」
「ふふっ、そうなのね。秘密基地のあの景色も山と海が一望できて、本当に素敵だもの」
「あぁ。トワが綺麗な自然や景色が見られるところに行きたいと言ったんだ」
「それなら秘密基地はまさにぴったりな場所ね。穏やかな時間が過ごせたんじゃない?」
「……あぁ、とても穏やかな時間を過ごすことができた。あの場所は私にとってかけがえのない、忘れられない大切な場所になった」
栄善の表情からは、身体全体に滲み出るような幸せが感じられた。
『秘密基地』は、栄善とトワちゃんにとって特別な出来事が刻まれた、忘れられない思い出の場所になったのだと私は思った。
「栄善にとって、特別な場所になったのね」
「あぁ、そうだな」
栄善は柔らかな笑みを浮かべた。
そして、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば、ある日突然、団丸が『山茶花団子と山茶花は特別だ』と言うようになったであろう?その理由を杏歌は知っているか?」
「あぁ、そのことならね。昔、私が団丸に伝えたの。食べたくても食べられない人もいる、って話を……団丸は私の大切な幼馴染だから、その想いを大切にしてほしかったの」
「ふっ、そうであったのか。団丸は本当に素直な奴であるな」
「ふふっ。えぇ、本当にね」
栄善が柔らかく微笑んだあと、静かに口を開く。
「トワには、私の母の話もしたのだ。母もトワと同じように手料理が苦手だったということも」
「そういえば、栄善のお母様の手料理、いつも苦かったのよね。でもトワちゃんも苦手ながら、一生懸命作ってくれているのが伝わってくるわ」
私はそう言って、そっと栄善を見つめた。
「あぁ、そんなところがどうも母と重ねて見てしまう」
栄善はわずかに視線を落とす。
その仕草に、私は小さく笑みを返した。
栄善は少し照れくさそうに息をつき──話題をそっと変えた。
「本日、諭作のところへ行ったときだが……腰を痛めておったな。早く良くなるとよいのだが」
「それ、雲祈と綿花も言っていたわ。今日、色奉書の納品に来たときも、随分痛そうだったって」
栄善は小さく眉を寄せ、俯いた。
「……そうであったのか。無理をさせてしまったな」
「でも雲祈が代わりに運んでくれたそうだから、少しは楽になっていたそうよ。……早く良くなるといいわね」
「あぁ、そうだな」
その後も、栄善と私は今日の出来事をゆったりと語り合った。
「くすくす、そんなことがあったのだな」
「ね?びっくりしちゃうでしょ?」
楽しく笑い合う中、栄善の瞳がふと真剣な色に変わる。
「……杏歌。トワに簪を贈ったのだ。私が選んだ簪を……」
「……栄善……」
その言葉を聞くだけで、栄善の覚悟が胸に伝わってきた。
「……撫子の花が描かれた、小ぶりの簪を渡したんだ……」
簪を贈る──それはあなたを想っているという意味。
そして撫子の花言葉は純粋な愛。
栄善の様子を見ていると、その想いの深さは言葉にせずとも伝わってきた。
そして──きっとトワちゃんも同じ想いを抱いているんでしょうね。
「……もうすぐね、対縁の儀。きっと、上手くいくわ」
「……あぁ、そうだな……」
栄善の瞳には、迷いのない静かな決意が宿っていた。
私はその横顔を見つめながら静かに息をついた。
──その決意が、どうか報われますように。
……そう願わずにはいられなかった。




