第64話 暴れゴリラの目覚め
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
襖を開けた瞬間、静かな書斎の奥から小さないびきが聞こえてきた。
「ぐぉー……すぴー」
机に突っ伏したまま、相変わらず気持ちよさそうに眠っている時雨。
「……まったく、こいつってやつは」
春風は時雨の肩をそっと揺さぶりながら呟いた。
「おい、時雨、起きろ。朽葉ノ国へ出す文書だ。確認してお前の公印を押してくれ」
綿花は少し緊張しながら問いかけた。
「時雨さんの公印がないと、どうなるのですか?」
春風は真剣な表情で応える。
「朽葉ノ国では、この文書は正式なものとして認められず、ただの紙切れになってしまう」
「……紙切れ……」
「それだけじゃない。公印とは国と国を結ぶ約束の証でもあるんだ。何より、国の信頼を損なうことになり、栄善の顔にも泥を塗ることになってしまう。場合によっては、今後の交易や外交にまで影響が及ぶかもしれない」
「……そんなに……」
「……まぁ、他国となればそうだが、朽葉ノ国とは長年の付き合いだからな。万が一そうなっても、公印付きの文書を出し直せば、一大事になることはないだろうがな」
そう言った春風は、さっきより少し力を込めて肩を揺さぶった。
その瞬間、時雨のいびきがぴたりと止まった。
「……ん……なんだ〜お〜い……」
「やっと起きたか、この暴れゴリラめ」
「……あ〜、頭、痛ぇぜ〜、ひっく……」
「あれだけ飲めばな。時雨、今日、綿花に文書の書き方を教えなければならないことを覚えていたか?」
まだ頭が回らない時雨は、必死に考えを巡らせ、やがて我に返った表情を浮かべる。
机をばん!と叩き、大きな声で叫んだ。
「……やっべぇな!!すまねぇ、綿花!!まだ昼か!?もしもう日が暮れてたら、文書、間に合わねぇぞ!?」
焦る時雨に、春風は少し呆れた声で応える。
「まだ日が暮れるまでには時間がある。文書は私が綿花に書き方を教えた。内容を確認して交易奉行の公印を押してくれ」
その言葉を聞き、時雨はふっと肩の力を抜き、小さく安堵の息を漏らした。
「……わりぃな……春風に綿花よぉ」
春風は軽く微笑み、頷く。
「まぁ、元はと言えば私のせいだからな」
綿花は二人のやり取りを静かに見守っていた。
差し出された文書を受け取り、時雨は片手で頭を押さえつつ、ゆっくりと目を通す。
「……う〜、頭も痛ぇし、目も霞んでやがる……ちょ、ちょっと待ってろ。今確認して、公印押すからよぉ」
ふらふらとしながらも、公印を押し終えた時雨の肩には、ほっとした軽さが戻っていた。
「よし、これで一件落着だな。あとはこの封に糊をつければ完了だ」
「……本当に、すまねぇ」
「いいんだ。それよりお前はゆっくり休め。私が追加のお茶を持ってくる。そんなにふらふらしていたら危ないだろう」
「……ひっく、あぁ。ワイン、美味かった」
時雨はそう呟くと、再び眠りに落ちそうになった。
その様子を見て、春風も綿花も思わずくすりと笑った。
「やれやれ。じゃあ綿花、この文書に糊付けをして公儀飛脚に渡してきてくれ」
「はい、分かりました」
「綿花、最後におさらいだ。文書作成で特に気をつけるのは、最後の封の折り方だ。松風からもらったこの二つの印鑑が、しっかり飛脚や門番の目に入るように折るんだぞ」
「はい。春風さん、色々と教えてくださり、ありがとうございました」
綿花は深く一礼し、自分の書斎へ向かい、静かに糊付けを終えた。
その後、公儀飛脚に文書を託すべく、足早に廊下を進む。
背後から元気な声が弾んで聞こえ、振り返ると──
「おや?綿花さんではないですか!」
豪快な笑顔で歩み寄ってきたのは雲祈だった。
「雲祈さん。お戻りになられたのですね」
「はい!無事にだん吉さんのもとへ、綿花さんが手配してくださった紐もお渡ししてきましたよ!」
「ふふっ、ありがとうございます」
雲祈はにこりと笑いながら、綿花の手元の文書に目をやった。
「綿花さん、もしかして今から公儀飛脚さんのもとへ行かれるのですか?」
「はい、そうなんです」
「それなら、私がご案内しますよ!公儀飛脚さんとは仲良しですし、得意分野ですから!」
そう言うと、雲祈は迷わず綿花の手をぐいっと引っ張った。
「……あっ、あの……!」
突然の豪快な行動に、綿花は思わず戸惑いの声を漏らす。
「ぬ?どうなさいましたか、綿花さん!」
「……いっ、いえ……なんでもありません」
「そうですか!さぁ、綿花さん、開門時間がありますので急ぎましょう!公儀飛脚さんはこちらですよ!」
眩しい笑顔に包まれ、綿花は戸惑いながらも自然とその後ろをそっとついて行くのだった。




