第63話 蔵の印
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
昼下がり──春風と綿花は、静かな庭を抜け蔵へと歩みを進めていた。
「いいか、綿花。まずは蔵へ行き、松風に色奉書を貰わなくてはいけない」
「はい、分かりました」
やがて二人は、ひっそりと佇む蔵の前に辿り着いた。
中へ足を踏み入れると、木の床がかすかに軋み、静けさの中に自分たちの足音だけが響く。
二人は慎重に蔵の奥へと進むと、そこには蔵の管理者・松風が穏やかな笑みを浮かべて待っていた。
「やぁ、春風さん、綿花さん。珍しい組み合わせだね。何が必要かい?」
「あぁ、時雨が酔い潰れてしまってな……まぁ、私のせいなんだが。それで私が綿花に文書の書き方を教えることになったんだ」
「そうだったのかい。時雨さんらしいね。文書ってことは、色奉書が必要かい?」
「あぁ、朽葉ノ国に出す文書を作成するんだ。色奉書はまだ残っていそうか?少ないと聞いていたが……」
「そうなんだよ。少ないけれど、文書作成には十分足りるよ。今から準備するから、少し待っててな」
松風は静かに金庫の鍵を回すと、棚から二枚の色奉書を取り出した。
丁寧に並べ、春風と綿花の前に差し出す。
「春風さん、綿花さん。一枚は文書用、もう一枚は封用の色奉書で、合わせて二枚だね」
「あぁ、足りてよかったよ。ありがとう、松風」
春風は色奉書を手に取りながら、綿花に声をかける。
「いいか、綿花。文書作成の色奉書を受け取るときは、ここからが重要になる。よく見ておくんだぞ」
「はい。分かりました」
綿花は深く頷き、手元の色奉書に視線を落とす。
松風は金庫の中から小さな箱を取り出すと、まず帳簿を取り出した。
さらに箱の中から、印鑑を二つ取り出す。
「……印鑑?それに、二つも……」
綿花は不思議そうに小さく呟いた。
それに応えるように、松風は優しく微笑みながらそっと説明をした。
「この印鑑は、一つが蔵の管理者印。もう一つは蔵印なんだよ、綿花さん」
「蔵の管理者印と蔵印……」
「そうなんだよ。そしてこの印を、文書用と封用の紙の裏に押すんだよ」
松風は言いながら丁寧に紙の裏に印を押していった。
印の押された二枚の紙を前に、春風は綿花に声をかける。
「お前も習ったと思うが、この二つの印は、文書を他国へ出す際の『正式な文書』である証になるんだ。もし押されていなければ、飛脚も門番も文書を受け取らないし、門も通してくれない」
「……なるほど……」
「つまり、この二つの印鑑があることで、桂ノ国から正式に出された文書だと判断されるんだ」
「……だから二つの印鑑も金庫の中に入っていたのですね」
「あぁ、国を揺るがすほど大切な印鑑だからな」
春風が綿花に説明する傍ら、松風は静かに帳簿に記録をつけていた。
その様子を見た春風が口を開く。
「今、松風は帳簿に記録をつけているが、これは誰がどれだけ使用したかを示すためのものだ。そして使用状況や在庫状況は、週ごとに茶々蔵に報告され、さらに月ごとの報告でも確認されている。こうして異常がないか常に見届けることができるんだ」
「……そんなに厳重に……とても神経を使う作業ですね」
「あぁ、そうだな。これは長年この蔵を守ってきた松風にしかできないことだな」
春風は感謝の気持ちを込めて、松風に向き直った。
「松風、私たちはいつも助かっているよ。これからもこの蔵をよろしくな」
「春風さん、ありがたい言葉だよ。こちらこそ、皆様のためにこの蔵をこれからも大切に守っていくからね」
松風の顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
「それじゃあ、私たちは行くよ。松風、ありがとな」
春風に続き、綿花も軽く一礼して言った。
「松風さん、ありがとうございました」
「いいんだよ。春風さんも綿花さんも頑張ってな」
そうして二人は蔵を後にし、春風の書斎へ歩みを進めた。
「……さてと、ここからが本番だな。しっかり私に付いてこいよ」
「……はい」
二人は肩を寄せ合うように机の前に座り、色奉書を前に慎重に筆を運んだ。
春風の手元を見ながら、綿花も一筆一筆丁寧に書き進める。
時折、春風が小さな声で助言を与え、綿花が頷く。
静かな書斎に筆の音だけが響き、二人の集中は途切れることなく続いた。
やがて、色奉書の文字が揃い、文書は完成した。
春風が手を止め、深く息をつく。
「……よし、最後に封に宛て先を書いて、これで文書は完了だ。綿花、よく頑張ったな。あとは、この文書を時雨が確認して交易奉行の公印を押さなければならない。起きてるか、あいつは……」
春風と綿花は完成した色奉書を手に、静かに時雨の書斎へと歩みを進めた。
襖の向こうからはかすかにいびきの気配……
二人は息を潜め、そっと襖に手をかけた。




