第62話 時雨の書斎で【綿花編】
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
城内は、思いのほか静かだった。
先ほどの琥景さんと煌景さんの言葉が胸に引っかかり、足取りは自然と早まる。
任務を終えた私は、報告のため時雨さんの書斎の前に立った──
そのとき。
中から、柔らかな声が聞こえてきた。
……笑い声?
私はそっと襖に手をかけ、静かに開いた。
目に飛び込んできたのは──穏やかに談笑している杏歌さんたちの姿だった。
……思っていたより、ずっと和やか。
けれど、なぜ皆さん、時雨さんの書斎へ?
そっと室内を見渡したそのとき、こちらに気づいた哀伝さんと目が合った。
にこりと笑い、哀伝さんが声をかけてくれる。
「あっ、おかえり〜綿花。初めての一人任務、お疲れ様!」
その声に、ほっと胸を撫で下ろした。
任務を終えたばかりの緊張が、少しずつほどけていく。
続けて杏歌さんも微笑みを添えて尋ねる。
「おかえりなさい、綿花。疲れたでしょう?紐は無事に手配できた?」
「はい、無事に手配できました。諭作さんのお店でちょうど雲祈さんに出会ったので、紐は雲祈さんがだん吉さんの元へ届けてくださっています」
「ほっほっほっ。それはよかったのぉ、綿花。雲祈もおったのなら、心強かったじゃろ」
「ふふっ、はい。そして私は、雲祈さんが手配してくださった糊を持ち帰りました」
「あら、ちょうどよかったのではないかしら。これで、文書を書く準備も万全ね」
「……はい……」
春風さんがふと目を留めた。
「ん?どうしたんだ、綿花。そんな浮かない顔をして。任務は無事に終えたのだろう?」
その言葉に、皆さんの視線が自然と私へと向けられる。
この部屋の穏やかさが、かえって私の胸騒ぎを浮き立たせる。
私はゆっくりと口を開いた。
「……先ほど門のところで、琥景さんと煌景さんがおっしゃっていたんです。杏歌さんの声が城内に響き渡っていたと……」
「え?」
杏歌さんは目を丸くし、思わず声を上げた。
私は俯き、言葉を継いだ。
「とても大変なことになっているかもしれないと……お城の中で、何かただならぬことが起きているのではないかと……だから、皆さんの身に何かあったのではないかと、気になってしまって……」
「あ〜、そのことだったらね〜。これだよ、これ」
哀伝さんが、困ったように視線を横へ向けたその瞬間──
どたどたと、廊下を駆ける大きな足音がこちらへ近づいてきた。
勢いよく襖が開く。
「柚寧さんー!皆さん、ご無事ですかー!?」
「杏歌さんの叫び声がしたと、煌景さんが!」
肩で息をしながら飛び込んできたのは、大納さんと蒼月さんだった。
「あら、おかえりなさい。大納、蒼月。外回りご苦労様」
何事もなかったかのように、さっぱりとした口調で告げる柚寧さんに対し、大納さんと蒼月さんは慌てた様子で言葉を紡ぐ。
「柚寧さん、何をおっしゃっているのですか!この城でただならぬことが起きていると伺いましたよ!皆さん、大丈夫なのですか!」
「そうですよ!柚寧さんは書斎におらず、皆様のお姿もありませんでした。『ただならぬ匂い』を辿ってここにたどり着いたのですよ……って、あれ?ここは、時雨さんの書斎だ……」
大納さんと蒼月さんは、きょとんと顔を見合わせる。
……その表情は、きっと私も同じだったに違いない。
何が起きているのか、まるで掴めない。
けれど、室内の空気は思いのほか穏やかで──それが余計に状況を分からなくさせていた。
次の瞬間、皆さんが次々に口を開く。
「ぷはははは〜!杏歌のさっきの大声、最高だったね!まぁ、ただならぬことになっていたのは事実なんだけどね〜」
哀伝さんが肩を揺らして笑う。
「ほっほっほっ。確かにのぉ。あれは城中に響き渡っておったわい」
茶々蔵さんも、愉快そうに頷いている。
「……やだ、確かに響き渡ってたわね。恥ずかしい……」
杏歌さんが、ほんのりと頬を染めながら小さく呟く。
……つまり、叫び声は本当にあったということ……?
胸の奥が、ひとつ小さく跳ねる。
「蒼月。あなたの言う『ただならぬ匂い』とは、一体何のことかしら?」
柚寧さんが、すっと問いかける。
「……あぁ、確かに。それは私も気になるな」
春風さんも静かに続けた。
そして、皆さんの視線がゆっくりと蒼月さんへ集まった。
蒼月さんは一歩前に出る。
「ただならぬ匂いとは、廊下から時雨さんの書斎にかけて充満している、この香りのことです」
そう言って、鼻先をわずかに動かす。
「この甘酸っぱい……異様に濃い匂い。城内ではまず嗅がない類のものです。……ん?」
隣で大納さんも、同じように鼻をくんと鳴らす。
「……確かに。墨や紙とは違う。どこか果実のような……」
室内に、わずかな沈黙が落ちた。
その甘酸っぱい香りがじわりと鼻をくすぐる。
そのとき──哀伝さんが、ゆるりと笑みを浮かべた。
「大納と蒼月、その匂いの正体はこれだよ」
そう言って取り出したのは、深い紅をほのかに湛えた細長い瓶。
底にわずかに残る液体が光を受けてゆらりと揺れる。
「そして、綿花が言っていた何かただならぬこととは……このことよ」
杏歌さんが視線を向けた先には──
顔を真っ赤に染め、机に突っ伏したまま大きないびきをかく時雨さんの姿があった。
「ぐぉー……ぐぉー……」
規則正しく響くその音が、妙に静かな書斎に重く広がる。
私と大納さん、蒼月さんは思わず顔を見合わせた。
……これが、“ただならぬこと”の正体?
胸の奥に張りつめていた緊張が、ふっとほどける。
すると、くすりと笑う声が上がった。
「まぁ、そういうわけなんだよね〜」
哀伝さんのその一言をきっかけに、皆さんが順に、時雨さんがこのような状態に至った経緯を話してくださった。
「……そうだったのですね……」
「これが、ただならぬ匂いの正体か……」
「わいん……一度、飲んでみたいなぁ……」
私たちはそれぞれ驚きや興味を抱き、思わず口々に声を上げた。
それに応じるように、茶々蔵さんたちも口を開いた。
「廊下まで匂いが漂っておったとはのぉ」
「えぇ、あれだけ飲めば仕方がないわね」
「私も一度、飲んでみたかったものだ」
穏やかな笑いが、静かに広がる。
けれど──私は、はっと我に返った。
「あの……本日の文書作成は、どうなるのでしょうか?」
「あぁ、それなら綿花。私が綿花に教えることになったんだ」
「……え?春風さんが?」
「ごめんね〜、綿花。僕も午後から商談が入っちゃってさ〜。でも、春風はしっかりしてるから!他部署で深く関わったことがなかったかもしれないけど、これを機に仲を深めるのもいいんじゃない?」
「いいこと言うじゃない、哀伝。綿花、困ったことがあったら、時雨じゃなくて春風に頼ってもいいんだからね」
「ふふっ。ありがとうございます。哀伝さん、杏歌さん。それでは春風さん、恐れ入りますが、よろしくお願いいたします」
「あぁ、ことの発端は私のせいだからな。だから綿花、午後から私の書斎に来てくれないか?」
「はい、分かりました」
無事に午後の予定も決まり、胸の奥にあった緊張がふっとほどけた。
そのとき、茶々蔵さんがそっと口を開いた。
「綿花が持っておる、その風呂敷……諭作のところのではないか?もしや、山茶花団子かの?」
「はい、そうなんです。『お嬢様方がお好きな山茶花団子を今朝用意しておきました』とお渡しくださいました」
私の言葉に杏歌さんが優しく微笑んだ。
「諭作ったら、本当に律儀なんだから。でも、すごく嬉しいわね。今度お礼を言わなくちゃね」
「さすが杏歌〜、愛されてるね!」
「私、山茶花団子すごく嬉しいです!」
「本当だね、大納。楽しみだなぁ」
「二人とも外回り頑張ったものね」
「ふふっ。今からはお昼の甘味もございますので、私の文書作成が終わりましたら皆様に山茶花団子をお分けしますね」
「あぁ、それがいいな。その頃にはちょうど小腹も空いている頃だろう。私も手伝うよ」
「そうね。それに、雲祈も帰っているでしょうし。綿花と春風、助かるわ。ありがとう」
「では、みんな。わしが甘味を取ってきてやるから少し待っとれ」
「茶々蔵、私も手伝うわ」
「ほっほっ。助かるぞ、柚寧」
そうして皆で甘味を囲み、お昼のひとときを過ごした。
やがて午後になると、私たちはそれぞれの仕事へと戻っていった。




