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第60話 呑んだくれ上司

【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―

お城へ戻ってきた私たちは、目の前の光景に思わず二度見した。


「ちょっと、何やってんのよ〜!!」


私の声が、城内に響き渡る。


無理もないわよ。


だって、時雨(しぐれ)が私の書斎で襖(ふすま)を全開にして、そのまま廊下に足を投げ出して寝ているんだから。


「ぐぉーぐぉー、ひっく」


何よ、時雨ったら……酔っ払ってるわけ〜!?


っていうか、なんでいつも私の書斎で寝るのよ!?


哀伝(あいでん)も「やっちゃったか〜」という顔をしながら口を開いた。


「あちゃ〜、これじゃ起きたとしても、綿花(めんか)に文書の書き方を教えられないんじゃない?」


「本当よ……どうするのよ、今日の文書」


私と哀伝が頭を抱えていると、春風(はるかぜ)と柚寧(ゆね)、そして茶々蔵(ちゃちゃぞう)が慌てた足取りでばたばたと現れた。


春風が困った顔で口を開く。


「……すまない、杏歌(きょうか)、哀伝。全部、私のせいなんだ」


「……春風、一体何があったの?」


私がそう尋ねると、春風は申し訳なさそうに目を伏せた。


「時雨もここ最近、仕事が立て込んでいたからな。気晴らしに、今夜一杯やらないかと誘ったんだ」


「……だけど、それでなんでこんなことに……?」


私の問いに、柚寧が静かに口を開く。


「理由は、これよ。杏歌」


そう言って差し出されたのは、見慣れない洋風の瓶だった。


細長く、深い色の硝子瓶。


「……何それ?葡萄酒?」


「えぇ、異国のお酒──ワインというものよ」


「わいん?」

「わいんって何なの?」


私と哀伝の疑問に、茶々蔵が応える。


「ワインとは、異国で作られる大変珍しいお酒じゃ。酒飲みの間で話題になることもあるが、市場にはほとんど出回らん、貴重なお酒なんじゃよ」


柚寧も興味深そうに瓶を見つめ、静かに言った。


「私も噂には聞いたことはあるけれど、実物を見るのは初めてよ。それほどワインというものは貴重な品なのよ」


私はそっと息を呑んだ。


瓶の底に残る深紅(しんく)の液体が、かすかに揺れている。


「……わいんって、そんなに貴重な代物なのね……」


「……あぁ。時雨が少しでも喜ぶかと思って、今夜飲むワインを見せたんだ。それで仕事も捗るだろうと思ってな」


「そのとき、時雨すごく喜んでたんじゃない?お酒には目がないからさ〜」


「あぁ。目の輝きようときたらな。限定の酒で、市場には滅多に出回らないことをこいつも知っていたからな」


……そのときの時雨の様子が容易に想像できるわね。


春風は小さく息をついた。


「自室にしまっておいたのだが……いつの間にか勝手に飲まれてしまっていた。私が書斎で仕事をしている隙を狙ったんだろう」


柚寧が腕を組む。


「……まぁ、酒飲みの時雨がこんな限定で貴重なワインを目の当たりにして、我慢できるはずもないわよね……それに、普段から春風のお酒は勝手に飲んでいるし……」


それに続いて、茶々蔵も口を開く。


「……そうじゃの。わしも飲みたいものじゃ……ではなく、今は男手が足りん。わしは腰を痛めておるからのぉ。すまんが、哀伝と春風、時雨を時雨の書斎まで運んでくれんかの?」


「お安い御用だよ、こんな酔っ払い〜」


「すまないな、哀伝。私一人では、この石のように硬い男を動かせそうにないんだ」


その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられた。


……春風は右肩と胸の間を負傷しているんだもの。


もし私を庇わなかったら──


時雨なんて、春風一人で抱えて運べたのかしら……


そんなことを考えているうちに、哀伝と春風が時雨を抱え上げようとしていた。


けれど──


酔った時雨は突然手足をばたつかせた。

二人の体勢が大きく崩れた。


「……ぐぉー、ぐぉー、おらぁ〜!ひっく」


「ちょっと、この酔っ払い上司、いい加減にしてくれない?……わぁ!手をぶんぶん振らないでよ〜!」


「……こいつは本当に石のように重いな……」


……いや、たとえ春風が万全でも、時雨を一人で運ぶのは無理だったのかもしれないわ。


「……っていうか、時雨も十分暴れ馬じゃないのよ」


「……えぇ、しかもかなり凶暴な暴れ馬だわ」


「前に時雨が杏歌の書斎で寝ておったときは、雲祈(うんき)が起こしてくれたのじゃったのぉ。……雲祈、早く帰ってこんかのぉ……」


……雲祈のあれは、ある意味ちょっとした事故のようなものだったんだけどね。


私と柚寧、そして茶々蔵が哀伝と春風の奮闘を見守っていたその最中──


廊下の奥から、ばたばたと駆ける足音が近づいてきた。


勢いよく角を曲がってきたのは、七左衛門(しちざえもん)と団丸(だんまる)だった。


「おっ、哀伝と春風、何やってんだよ?……って、時雨!?」


走りながら視線を向けた七左衛門が、思わず足を止める。


「何やってんだ、みんなで!愉快だなー、がははははー!」


廊下いっぱいに、団丸の豪快な笑い声が響いた。


その声に呼応するように、哀伝が口を開く。


「聞いてよ〜、二人とも〜。任務から帰ってきたら、時雨が“わいん”っていうお酒を飲んじゃったみたいで、この有り様だよ〜。今から綿花に文書の書き方も教えないといけないのにさ〜」


その瞬間、七左衛門の足がぴたりと止まった。


「……わいん?」


さすが酒豪。

その単語にだけ、鋭く反応する。


「わいんって何だ?旨いのか?」


団丸はきょとんと目を瞬かせながらも「行かないと遅れるぞー!」と七左衛門を促した。


私は二人のやり取りを見つつ、状況を手短に説明する。


「異国のお酒で、市場には滅多に出回らない限定の品らしいわ。春風のそのわいんを、時雨が勝手に飲んじゃったんだって」


七左衛門は目を輝かせた。


「……へぇ〜、限定の酒なのか。まぁ、時雨はいつも春風の大切にしてる酒を飲んで酔ってるからな」


団丸は後ろを振り返り、慌ただしく七左衛門の肩を揺らした。


「七左衛門、おいらたち遅刻するぞー!」


その勢いに、七左衛門の体がぐわんぐわんと揺れる。


「ぷはははは〜!珍しく団丸が必死で、七左衛門を揺らしすぎでしょ!」


哀伝の様子を見て、七左衛門は少し照れ臭そうに頭を掻いた。


「……あっ、そうだな、団丸。悪い、哀伝、春風。手伝いたいところだが、俺たち今から現場なんだ。陰ながら応援してるぜ!」


「全然だよ〜、七左衛門も団丸も頑張ってね!気をつけて行ってらっしゃい!」


「おう!哀伝たちも頑張れよー!」


二人は廊下の向こうへ消え、元気よく手を振りながら去っていった。


「……さてと、春風、この酔っ払いをさっさと片付けちゃおう!」


「……あぁ、午後の時間も迫ってるしな。哀伝、お前はこっちを持ってくれ」


「任せてよ、春風〜!」


そうして二人は、暴れ馬……いや、私の目にはまるで暴れゴリラに見える時雨を、必死に彼の書斎まで運んでいった。

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