第30話 静かな幸福のかたち
【第二部】遺志を継ぐ者たち―巡―
その日の仕事をすべて終え、私は一人、書斎で期日の迫った書類をようやく仕上げていた。
「あぁ〜……終わったわ〜」
凝った肩を叩きながら、そう呟いた。
ほっと一息ついたところで、私は今日のことを振り返っていた。
ねぇ、みんな聞いて。
今日の朝食は茶々蔵と話していた通り、じゃがいもが出たのよ。
じゃがいものお味噌汁。
しかも──歪なじゃがいもだったの!
それを見た瞬間、会議の疲れなんて一瞬で吹き飛んだわ。
なんて言ったって、歪なじゃがいもの日は「一日、良い日になる」って言われてるんだからね。
え?私って、そういうの信じそうにないって?
女の子らしくないって?
……まったく、みんなも失礼ね。
私だって、少しくらい可愛げはあるのよ?
自分で言って少し虚しくなってきたわ……
まぁ、それはいいとして。
私が食堂でいつものように遅めの朝食をとっていると、雲祈がやって来たの。
雲祈ったら、私に合わせて朝食をとりに来るのよ?
私は食べる時間が遅いんだから、合わせなくてもいいのに。
それでもそんなところが、可愛い後輩なのよね。
雲祈は歪なじゃがいもを見て『あぁ〜今日は、なんて素敵な日なのでしょう〜!見てください、杏歌様!この歪なじゃがいもの形を!今日は、特別な日に違いありません!』なんて言いながら、私の両手を握ってきた。
『そして、それは私と杏歌様の愛の──』
ぐぇっ!
雲祈が何かに浸っているその瞬間、哀伝が現れて雲祈を思いっきり吹き飛ばした。
『杏歌大丈夫?雲祈に何もされてない?』
そう言って、哀伝は私の両手をぐっと握る。
それよりも哀伝……あんたどこにいたのよ?
どうやって飛んできたわけ?地獄耳すぎない?
そんなことを思っていると──
『雲祈〜!前に杏歌のこと、尊敬の眼差しで見ていて、やましい気持ちなんてないって言ってたじゃん!』
『はい!もちろんです!尊敬とはつまり、愛!愛がなければ、尊敬などできません!』
『なんなのそれ?僕、全然意味分かんないんだけど?』
なんて、また言い合いが始まったの。
あの二人は、仲が良いんだか悪いんだか、いつもよく分からないわね。
ふふっ。でも賑やかでつい笑っちゃうのよね。
今日は残ってた書類も片付けたし──最高の気分だわ。
やっぱりあのじゃがいも占いは当たってるのね。
トワちゃんに感謝だわ。
一人幸せな気分に浸っていると、襖の向こうから静かな声が聞こえてきた。
「杏歌、私だ。入っても良いか?」
「えぇ。もちろんよ、栄善」
襖が静かに開き、栄善が姿を見せる。
彼の表情は、どこか柔らかく、いつもより少しだけ穏やかだった。
「茶々蔵に聞いたぞ。朝から書斎に引きこもって書類を仕上げていたと。もう終わったのか?」
「えぇ、ちょうど今終わったところよ。心配してくれてありがとう」
「それならよかった。本日は一日席を外し、皆に迷惑を掛けた。だが、お陰でいい品を選ぶことができた。感謝する」
「何言ってんのよ。栄善だって今日は仕事だったんだから。品選びだって大変だったでしょ?こちらこそありがとう」
私がそう言うと、栄善はふっと頬を緩めた。
その笑みは、いつもより少しだけ柔らかくて──
ふふっ。
栄善ったら、今日何か嬉しいことでもあったのかしら?
今まで見たことのない表情に、私は思わず心が揺れた。
「栄善は今日トワちゃんと出掛けたんでしょ?どこに行ったの?楽しかった?」
私は穏やかな笑みを浮かべる栄善の様子が気になって、つい質問を重ねてしまった。
私、質問しすぎちゃったかしら?
だけどみんなも気になるでしょ?
そう思った瞬間、栄善がふっと笑って、目を細めるようにして答えた。
「あぁ、とても充実した一日だった」
「ふふっ。そう、それはよかったわ」
「昼の甘味の団子を選びに行ったのだ。町で屈指の人気を誇る、あの団子屋を訪ねた」
「あのお店、美味しいわよね。トワちゃんも喜んでた?」
「……あぁ。夢中になって頬張っておった」
「ふふっ。可愛らしいじゃない」
その言葉に、つい笑みが漏れる。
栄善がこんなふうに愛おしそうに笑うのは珍しい。
「その後は手土産を選びに雑貨屋へ向かったのだ。トワが……心の込もった品を選んでくれた」
「そう、トワちゃんが。素敵な子なのね」
「あぁ。人の心にそっと寄り添う……そんな優しさを持つ者だ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
栄善の表情から、今日が彼にとって穏やかな一日だったのだと実感した。
日々、国を背負っている栄善。
その重圧は私たちの想像を遥かに超えている。
それでも、トワちゃんの存在が彼の胸に静かな灯をともしている。栄善の表情がそう語っていた。
「栄善、トワちゃんと言えばね。今朝のお味噌汁、歪なじゃがいもだったのよ。噂通り良い一日になったわ」
「ふっ、そうか。やはり、あの占いは当たるのだな……しかし、杏歌も占いを信じるとは思わなかった。明日は嵐が来ないか心配だな」
「……ちょっと栄善。失礼ね。私だって、乙女心ぐらい持ち合わせてるのよ?」
「ふっ、そうか。それはすまなかったな」
そんな会話を交わしながら、夜は静かに更けていった。
障子越しに、風が木々を揺らす音が届き、城内にはわずかな灯が残るだけ。
栄善の穏やかな笑みと、トワちゃんの話題。
その二つが、静かな夜の空気をほんの少しだけ柔らかくしていた。




