007 カナ・エスリン
「そろそろお腹が空きませんか? お昼にしましょう」
リリメルが、木に縛り付けられたシャルンへ、にこやかにパンを差し出した。
シャルンはこの一時間、必死に足をバタつかせ、拘束から逃れようと抗っていたが、今はもう諦めてぐったりと項垂れている。
リリメルの言葉に、シャルンは力強く頭を振った。
「……いらない」
断言したものの、視線は抗えずパンを追ってしまう。
鼻をくすぐる香ばしい小麦の香りが、無慈悲に腹の虫を鳴らした。
「ほら、『腹が減っては戦はできぬ』と言うじゃないですか! 一度お腹を満たしてから再戦してみてはどうですか?」
あまりに人を食った提案に、シャルンは獣らしく低く唸る。
だが、その眼前にパンを突きつけられ「ほらほら、お腹が空いたでしょう?」と追い打ちをかけられると、少年の口からは堪らず涎が流れ落ちた。
(……あれは拷問か何かか?)
アドガードは木陰に座り、そんな光景を眺めながら密かに戦慄していた。
無邪気とは怖いものだと思い、空を見上げる。
(空を見るのは、何年ぶりだろう)
頬を撫でる風を感じるのも、木々のざわめきを聴くのも……
胸の奥がじんわりと温かくなり、彼は深く、深く息を吸い込んだ。
芳醇な大地の香りが肺を満たしていく。
(この先、どんな苦難が待ち受けていようとも……俺は今日という日を、絶対に後悔しない)
それは、伝説の獣人が胸に刻んだ、静かで固い決意だった。
静寂に包まれた丘に、桃色の短髪をなびかせた女性が歩み寄ってくる。
「昼ごはん、買ってきましたよ。これからどうするんスか? 街じゃ風衛兵を呼ぶかって議論で持ちきりだったっスよ」
リリメルとアドガードが同時に振り返った。
その二人の視線は、はっきりと「誰だっけ?」と物語っている。
女性記者――カナ・エスリンは、不満げに眉を吊り上げた。
「昼ごはんを買いに行かせておいて、その反応はないんじゃないっスか!?」
カナが口を尖らす。
リリメルは「いやぁ」と笑いながら頭に手をのせた。
「有事でしたので」
リリメルが悪びれずに笑う。
カナは不満げに口を窄める。
仕方なく、芝生の上に布を広げ昼食の準備を始めた。
そこに街で調達してきたばかりの料理を並べていく。
立ち上るシチューの湯気。
焼きたてのパンに、分厚いハム。
その光景に、獣人二人の喉が鳴る。
リリメルはハムの一片を手に取ると、シャルンの目の前でひらひらとかざした。
さすがにシャルンも、肉という絶対的な誘惑に視線が釘付けになる。
腹の虫は騒がしく鳴き、口元からは涎がダラリと滴る。
「はい! あーん!」
リリメルの無慈悲なまでの誘惑に、とうとうシャルンは屈した。
口いっぱいに広がる、肉の旨味。
少年は宝物を慈しむように、何度も何度も口の中で肉を転がした。
一方、アドガードは掌の上のハムをじっと見つめている。
一口、口に運ぶ。
実に八十年ぶりの食事。
胸の奥からせり上がる熱いものが視界を滲ませる。
リリメルとカナは、あえて彼から視線を外した。
そうすることが正しいように感じたからだ。
カナがシチューの皿をリリメルに差し出す。
「いただきます」と短く告げるカナに対し、リリメルは静かに目を閉じ、祈るように手を合わせた。
長い沈黙の後、ようやく「いただきます」と呟く。
食後、カナは立ち上がって意を決したように胸を張った。
「改めて、自己紹介します。私は暁光瓦版社のカナ・エスリンです!
あなたたちを取材したくて、ここまで来ました。ぜひ、旅路に同行させてほしいんス!」
「暁光瓦版社……」
リリメルが唇に指を当てる。
「お願いっス!」
カナの声は、切実な熱を帯びていた。
「確かにウチはゴシップ紙ですよ。でも、大手の中央時報社や帝都日報なら『風聖』の圧力がかかります。自由報道社なら市民寄りの、当たり障りない記事になります。アドガードさんを『恐怖の象徴』として煽る文章しか書けないっスよ!
でも、ウチなら後ろ盾がない分、真実を書けます。忖度のない記事を書くと誓うっス!!」
その必死な瞳を見つめ、リリメルは静かに頷き、手を差し出した。
「……よろしくお願いします」
カナの顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなった。
両手でリリメルの手を握り返し、深々と頭を下げる。
「絶対、後悔させないっスよ!」
張り切りながら片付けを始めたカナの背中を見送るアドガードが、リリメルを軽く小突いた。
「……良かったのか? 記者なんて、何を書かれるかわかったもんじゃないぞ」
「そうですねぇ……」
リリメルは小さく呟いてから、人差し指をピンと立てた。
「もともと、旅の記録は残したいと思っていたんです。それに彼女が言う通り、大手よりは『平等な目』を持ってくれそうですし……少し、様子を見てみましょうか」
その時のリリメルの表情は、どこまでも楽観的にも、あるいは何かを見透かした策略的にも見えた。
「なぁ、もう襲ったりしないから。日が暮れる前に、お願いだから解放してよ……!」
木漏れ日が揺れる丘に、シャルンの切実すぎる懇願が虚しく響き渡った。
少年は、リリメルから渡されたハムを半分握りしめたまま、頑なに口をつけようとしない。
「解放されたら、またあの男のところに戻るのですか?」
リリメルは不思議そうに小首を傾げた。
その視線は、シャルンの震える瞳と、握られたままのハムを交互に捉える。
シャルンは唇をきつく結び、逸らしたいはずの視線を、吸い寄せられるようにリリメルへと固定していた。
リリメルは腕を組み、「うーん」と深く唸り声を上げる。
「なぜ、あんな男のところへ戻りたいのですか? そこまでして」
その問いに、シャルンの目が鋭く吊り上がった。
「あんな奴のところに帰りたくなんてないっ!!」
「では、どうして?」
墓穴を掘ったことに気づいたシャルンは、口をへの字に曲げた。
リリメルを強く睨みつけ、唸り声を上げる。
が、やがて諦めたように視線を伏せて呟いた。
「……俺が帰らないと、ミュラが殺されちゃうんだ」
「なるほど……」
リリメルは顎に指を当て、静かに考え込んだ。
沈黙が続き、シャルンの焦りが限界に達しようとした頃、ようやく彼女は口を開いた。
「グリンドの命令を遂行できずに帰っても、あなたに危害はないのですか?」
核心を突かれ、シャルンの胸が潰れそうになる。
わかっていた。
ミュラを助けるために戻ったところで、結局は二人ともグリンドに殺されるだろう。
連れてこられてから、わずか三ヶ月。
その短い間にも、三人の獣人の子供が、グリンドの謂れのない八つ当たりで、命を奪われるのを見てきたのだ。
「そんなの、わかってるよ!!」
シャルンの瞳から大粒の涙が、とめどなく溢れ出した。
「でも……ミュラは本当に小さい時に誘拐されてきたんだ。親の顔も知らない。ずっと俺が面倒を見てきたんだよ……! こんなところで自分だけ助かるなんて、できるわけないだろ!」
リリメルの細い指が、シャルンの頭を優しく撫でた。
「では、一緒に助けに行きましょう」
迷いのない、力強い笑顔。
彼女はそのまま、シャルンを縛っていた縄を鮮やかに解いてみせた。




