006 ラン・フェン
人通りの絶えた裏路地に、肉を打つ鈍い音と、押し殺した小さな呻き声が交互に響く。
グリンドの泥まみれの靴が、石畳にうずくまるミュラの体を無慈悲に蹴り上げていた。
「クソッ……クソッ! 華聖ごときが私を振り切るなんて……生意気だ、生意気、生意気ッ!」
小さな体は丸くなり、必死に急所を庇いながら小刻みに震えている。
グリンドの噛みすぎた爪は短くギザつき、指先からは赤く血が滲んでいた。
「いいか、あいつが朝までに戻って来なかったら……お前も道連れだ」
血走った目が、怯えるミュラを汚物のように見下ろす。
その時、苦痛に耐えるミュラの瞳と視線がぶつかった。
「なんだぁ!? その目はっ!!」
グリンドは逆上し、ミュラの腹部を思い切り蹴り上げた。
軽い体はその衝撃で宙に浮かぶ。
「お前も殺してやる、殺してやるからな! お前らみたいなゴミの代わりなんて、いくらでもいるんだよ!」
狂気にかられ、さらにもう一撃――。
だが、振り下ろそうとした足が、固い何かに当たって止まった。
地面とグリンドの足の間に、一本の棍棒が鋭く差し込まれていたのだ。
棍棒の先を視線で追ったグリンドは、息を呑んだ。
そこには、自分よりも一回りも体格のいい男が立っている。
額に青筋を浮かべ、燃えるような赤い眼がグリンドを真っ向から射抜いている。
「――何してんねん」
低く、地這うような声。
それは紛れもない純粋な憤怒だった。
その男が放つ圧倒的な「死」の気配に毒されたグリンドは、腰を抜かす。
ズリズリと壁を背に崩れ落ちていく。
その真下には怯えるミュラが体を小さく丸めていた。
「――グハッ!?」
次の瞬間、大男の棍棒がグリンドの横腹を容赦なく薙ぎ払った。
グリンドの体は木の葉のように数メートル吹き飛び、ゴミ溜めへと突っ込む。
「子供相手にえぇ根性しとるなぁ?」
横腹を抱え、嘔吐と咳を繰り返すグリンド。
暗がりの奥、獣のような赤い眼が二つ、爛々と輝いている。
それはグリンドがこれまで見てきたどの「獲物」よりも、圧倒的な捕食者の輝きだった。
――ドゴォォォォン!!
轟音とともに放たれた棍棒が、裏路地の壁を砕き、礫がグリンドを襲った。
「んぎゃぁぁぁぁぁ!!」
鋭い石の破片が肉を削ぎ、グリンドの体から鮮血が噴き出す。
激痛に呻きながらも、彼が手に握った鎖を力任せに引く。
すると物陰に隠れていた兎族の少女・ミュラが、喉を掻きむしりながら苦しみ始めた。
鳥聖の巨漢――ラン・フェンは、顔色を変えてミュラへと駆け寄った。
すぐさま鎖を逆側へ引くため、指を挟もうとするが、空を切って掴めない。
その間も、ミュラの首は絞まり続けた。
「ウゥッ――」
ミュラの呻き声がランの心を突き刺す。
(法術の鎖か……面倒な真似しおって……!)
ランは鋼のような指に力を込め、ミュラへと繋がる鎖を直接引きちぎろうと試みる。
地に伏せたグリンドから、勝ち誇ったような下卑た笑い声が漏れた。
「ヒヒッ……そんなことで切れるわけないだろぉ? 法術の鎖だぞ……!」
グリンドはゆらりと立ち上がり、再び鎖をグイと引く。
ミュラの顔色がみるみる青ざめていく。
もう呻き声すら出ない。
ランは迷わず、近くの石ブロックの上に鎖を叩きつけると、愛用の棍棒を力一杯振り下ろした。
「ハハハッ何度やったって無駄さ!!そんなことで、鎖が切れるものか!!!」
高笑いするグリンド。
――ドンっ!!!
人間には到底出せない、破壊音が地面を揺らした。
次の瞬間、彼女を縛っていた鎖は跡形もなく消え失せていた。
ミュラが大きく咳き込んで倒れ込む。
ランはすぐさま、震えるミュラの背中を大きな掌でさすってやる。
「はぁ?」
グリンドは「何が起こったかわからない」と言わんばかりに、掌の鎖とミュラを交互に見比べた。
「こ……こんなことがあってたまるか!?」
必殺の法術を物理で打ち砕かれ、グリンドは数歩後退した。
「こんな小さい子を盾に……お前、えぇ加減にせぇよ」
ランの瞳には静かな怒りが燃え盛り、標的であるグリンドを逃さない。
グリンドが右手を振るうと、再び鎖が蛇のように伸び、ランの体を幾重にも拘束した。
「はははっ! 口ほどにもな――」
そう笑うグリンドの目は、恐怖で揺れている。
「――フンッ!!」
ランが全身の筋肉を膨張させるように力を込めると、鉄の鎖が四方八方へと爆ぜ飛んだ。
首を鳴らしながら、赤い目が再びグリンドへと向けられる。
「風聖言うからどんなもんかと思ってみたら……大したことないやんか」
棍棒を器用に回しながら、ジリジリと間を詰めていく。
気迫に押され、グリンドは一歩、二歩と後退したがすぐに壁にぶつかった。
――次の瞬間
ランが目の前に現れる。
長い棍棒がグリンドの頬を捉え、その細い体は真横の壁まで吹っ飛んだ。
グチャッ
嫌な音が裏路地に響き、男は無様に崩れ落ちる。
「ぐふぅ……っ」
ランはゴミを見るような冷たい目でグリンドを見下すと、足元に唾を吐いた。
「オマエ……弱い者いじめしかできひんのか?」
ぐったりとしたグリンドの襟元を掴み上げ、至近距離で睨みつける。
空に浮いたグリンドの腕は逆方向に曲がり、頭からは大量に出血している。
グリンドの虚ろな瞳には、もう底知れぬ恐怖しか映っていない。
「ホンマ、しょうもないヤツやで、ワレ!!」
怒号とともに、強烈な頭突きがグリンドの眉間に決まった。
グリンドは白目を剥いて気絶。
ランはそのまま襟元を振り回し、壁に向かってゴミのように投げ捨てた。
再び骨の折れる不快な音が響いたが、グリンドはもうピクリとも動かなかった。
ラン・フェンは棍棒をくるりと回して背負うと、ゴミ箱の陰で震える小さな少女の前で、ゆっくりと膝を折った。
「こんな小さい子を……こんなになるまで。ほんま、腹立つわ」
一度きつく握りしめた拳を解き、代わりに少女の頭をそっと撫でる。
ミュラの体は恐怖でビクリと跳ねた。
「……すまん。痛いよな。悪いな。オレ、法術はあんまり得意やないんや」
ランの声には、心からの謝罪と後悔が滲んでいた。
ミュラは腕の隙間から、恐る恐るランを仰ぎ見る。
顔も体も傷だらけで、グリンドよりも圧倒的に屈強な大男。
だが、その瞳が驚くほど優しく、湿っていることに気づき、ようやく顔を上げた。
「病院に連れて行きたいけどな。この辺じゃ、獣人を診てくれる病院なんてないんや……」
大きな、温かな手。
ミュラを縛り付けていた強張りが不意に解けていき、気づけば彼女は、声を上げて泣き出していた。
その小さな手はランの服の裾をすがるように握りしめている。
ランは彼女の隣に腰を下ろし、その小さな肩が震え止むまで、静かに寄り添い続けた。




