005 暁光瓦版社
小さな部屋に机が所狭しと並び、壁際には本が隙間なく詰められた、今にも傾きそうな本棚。
木製の天井には長年のタバコの煤がこびりつき、至るところに黒いシミを作っている。
忙しなく響くタイプライターの音と、澱んだ白い煙。
その喧騒の中、窓を背にした一番大きな机に座る男が、一枚の紙を握りしめていた。
「カナ、ちょっと来い」
男がタイプライターを叩いていた女性記者を呼び寄せる。
「はい」
顔を上げたカナ・エスリンは、編集長の表情を慎重に窺った。
鼻先に小さな眼鏡をかけた編集長の、顔に刻まれた無数の皺の中でも、特に眉間の深い溝が特徴だ。
だが今は、口元の皺の方が深い。
(機嫌が良さそう……!)
カナは確信し、急いで男の傍らへ歩み寄った。
編集長は握りしめていた紙を、滑らせるようにカナの前へ差し出す。
カナは視線を落とした。
『随人申請書』と大きく書かれたその紙片は、無惨に破り取られ、四分の一ほどしか残っていない。
だがカナの鋭い目は、欠けた紙面から重要な情報を読み取った。
「所在地:中央都市」――。
中央都市に現存する刑務所は、千年刑務所のみ。
そして千年刑務所に残る囚人はただ一人。
「――アドガード・ウィキ」
ゴクリ、と唾を呑み込む。
好奇心で胸が高鳴り、一筋の汗が頬を伝った。
華奢な指が、その紙片をひったくるように掴む。
「これ、私に行かせてください!」
編集長の口元の皺がさらに深まり、ニヤリと笑った。
「定期連絡を欠かすなよ」
椅子を回転させ、背後の金庫からクルミほどの大きさの宝珠を取り出す。
翡翠色が深く、ずっしりと重いその石は、カナの二ヶ月分の給料に匹敵する価値がある。
法術が文明の基盤であるこの国において、この石は空気の次に必要な「生活の糧」だった。
「焦るなよ」
「はいっ!」
カナの弾んだ声が、編集部に立ち込める煙を大きく揺らした。
【中央都市】
記者カナ・エスリンはメモとペンを握りしめ、獲物が現れる瞬間を今か今かと待ちわびていた。
先ほど、一人の華教徒が刑務所の中へ入っていくのを目撃している。
あの伝説の獣人に、本当に出会えるのか。
恐怖と期待で胸が張り裂けそうだった。
(絶対に、歴史に残る記事を書いてやる!)
決意に燃えるカナの視界が、突如として巨大な影に覆われた。
「どけっ!!!」
空から「伝説」が降ってくる。
「うわあああ!?」
カナが派手に尻餅をつく寸前、アドガードは空中で身を翻し、彼女を回避して着地した。
巻き上がった土埃の向こうから、鋭い青い瞳がカナを射抜く。
(こ、これが……アドガード・ウィキ!)
圧倒的な質量と存在感。
カナが息を呑んだ刹那、その腕の中からリリメルの呑気な声が降ってきた。
「大丈夫ですかー?」
同時に、門の奥からグリンドの叫びが響く。
「逃がすな!行け、シャルン!」
次の瞬間、背後からシャルンが飛びかかってきた。
アドガードは長い脚を回し、迫る少年を無造作に跳ね除ける。
壁を蹴って再び襲いかかる少年。
門の奥からはグリンドも迫っている。
舌打ちしたアドガードは、カナとリリメルを小脇に抱え上げ、凄まじい跳躍を見せた。
そのまま近くの民家の屋根を、突風のような速さで走り抜ける。
シャルンもまた、垂直の壁を野生の動きで駆け上がり、すぐ背後へと肉薄した。
石造りの街並みを、騒々しい破壊音とともに走り抜ける、二人の獣人。
商店街には悲鳴と怒号が飛び交った。
「また教徒同士のやり合いか!」
「街中でいい加減にしろ!」
群衆の罵声が降り注ぐ。
見れば、街のあちこちに古い死闘の痕跡が残っていた。
修繕する余裕すらないのか、崩れた壁がそのまま放置されている。
シャルンとの距離は付かず離れず、どうしても振り切れない。
「アドガードさん、本気出してます?」
リリメルの無邪気な問いに、アドガードがムッとしたように眉をひそめた。
「……こんな街中で、本気で振り切っていいのか?」
脅すような口調に、リリメルは改めてシャルンを確認する。
「あ……」
少年の首を縛っていた「鎖」が、跡形もなく消えていた。
つまり、グリンドの手を離れたこの獣人をここで放置すれば、随人契約の違反事項にあたり、リリメル自身が裁かれることになる。
「やられましたね」
「とりあえず、街を出るぞ」
石畳を蹴り抜き、ようやく街道の外れへと脱出する。
中央都市を囲む高い外壁のすぐ傍に、小高い丘が見えた。
アドガードは外壁の頂上から、丘の上を目掛けて力一杯跳んだ。
蹴られた外壁の一部が爆ぜ、瓦礫が地面へ落下する。
芝生の上を滑るように着地し、勢いを使ってクルリと半回転。
その目前には、今まさに外壁から丘へと飛び移ろうとするシャルンの姿があった。
「おい、やめとけ!」
アドガードの警告も虚しく、シャルンが壁を蹴る。
だが、滞空中にわずかに失速した。
あと数センチが届かない。
少年の顔が絶望に青ざめる。
体勢を崩したまま、落下の軌道を描く。
この高さから落ちれば、いくら獣人といえどタダでは済まない。
――刹那。
アドガードの長い腕が、空中でシャルンの服をひっ掴んだ。
そのまま、放り投げるように丘の上へ引き上げる。
芝生を勢いよく転がったシャルンは、信じられないものを見る目でアドガードを仰ぎ見た。
リリメルはその様子を眺めながら、満足げな笑みを浮かべている。
土の上に転がったシャルンは、泥に爪を立て、必死に身を起こそうと足掻いていた。
肩で荒く息をつき、顔色も悪い。
四つん這いになるのが精一杯という惨状だ。
限界は、とうに超えていた。
「どうして、そこまでするんですか? 鎖も、もう解けているというのに……」
リリメルの問いに、シャルンの耳の先がわずかに動く。
少年はなおも彼女に飛びかかろうとしたが、前のめりに力なく転ぶだけだった。
リリメルは小さくため息をつき、静かに言葉を継いだ。
「できれば、戦いたくはありません。……何か、力になれることはありませんか?」
その優しく、あまりにも無慈悲な慈愛の一言は、シャルンの小さな自尊心を、鋭く切り裂いた。
「……っ、ない」
短く答えた少年の声は、無力感に打ちひしがれ、今にも消えてしまいそうだった。




