057 賢者
「では帰りましょうか」
カーヴェインは深呼吸するように、息を吐き出し、肩を軽くすくめる。
「えぇ?ちょっと待ってください!!」
焦ったのはリリメルだった。
思わず、カーヴェインの右腕を掴む。
「ここまで事を荒立てておいて帰るなんて、そんなのダメですよ!結末まで話して頂けませんか。できれば、もう少し、配慮した言い方で!」
はぁ、やれやれと言わんばかりにカーヴェインが首を振るので、リリメルは思わず「錘下」をお見舞いしてやろうかと思う。
しかし、視界に映る泥まみれの地面を見て断念した。
「あんたの話なんか聞きたくないよ!! さっさと出て行っておくれ!」
マルタが怒鳴り、農夫たちが勢いよく呼応する。
騒々しい足元が土埃を巻き上げ、喉の奥を刺激する。
だがカーヴェインは、怒号の海の真ん中でまるで無風地帯に立つかのように微動だにしなかった。
「あなた方は、風聖では子供に勉強を教えることが大罪になるとご存知ですか?」
何の感情も込められず淡々と告げられた言葉に、リリメル、セラ、オリバーはギクリとする。カーヴェインが牢内で知り得るはずのない情報だ。
三人は息を詰めたまま、カーヴェインの一言一句を待った。
「そんなことあるわけないでしょう?!あたしたちのことバカにするのもいい加減にしておくれ!!」
農民たちは心底、馬鹿にされたと感じ、「そうだそうだ!」「デタラメを言うな!」と続く。
その反応を見た瞬間、オリバーが言葉を失った。
彼らは本当に、知らなかったのだ。
ハルヴィンの懲役刑の根拠となった『教職資格のない者による授業の禁止』という戒律の重さを……
「マルタ……悪いが、これは事実だ」
オリバーの声は、乾いて掠れていた。
「風聖の戒律では、教職の資格がない者が授業を行うと、第三級思想犯として十八年以下の懲役刑に処される。ハルヴィンは……十五年の懲役を受けたんだ」
先ほどまでの耳をつんざくような怒号が、一瞬にして困惑の沈黙へ変わる。
農夫たちは互いの顔を見合わせ、その事実が何を意味するかを理解しようとしていた。
恐れと疑念が混じった、低いざわめきが広がっていく。
マルタはふらりとセラのもとへ歩み寄り、その腕をとって縋るように問いかける。
「そ、そんな……? 嘘だよねぇ? ねぇ、セラちゃん?」
マルタの懇願するような声に対し、セラの頬を伝う一筋の涙が、雄弁に真実を告げていた。
「そんな、そこまでしなくて良かったのに……なんて馬鹿なことを」
「愚かなのはあなた方です」
マルタの落胆を、カーヴェインは冷たく突き放す。
彼は、集まってきた農民たちを一瞥する。
「搾取されているとも知らずに、無知であり続けることを選んでいる。賢者の足を引っ張るのは、いつの時代も愚者ですから」
「だから!私たちは搾取なんてされてないのよ!帳簿を見たでしょう!」
マルタは顔を上げ、セラとカーヴェインを交互に見ながら訴えた。
カーヴェインが大きくため息を吐き、首をふる。
その仕草がマルタにはたまらなく鼻についた。
「なんなんだい?!アンタは?本当にちゃんと帳簿を見たのかい?!」
「えぇ、数量に関係なく四十年以上、同じ金額を受け取っている帳簿なら拝見いたしました」
「だったらわかるだろ?!去年のように不作で収穫量が少ない年でも、商人は変わらない額を払ってくれた。ウチらはこうやって、協力し合ってやってきたんだ!」
マルタの言葉には、商人を信頼してきた長年の自負が滲んでいる。
「物価は、この四十年で倍になりましたよ」
怒鳴り始めたマルタの言葉を、カーヴェインは短く、そして容赦なく遮った。
彼の声は静かだが、その響きは鋼鉄のように重い。
「ぶっか……?」
マルタはカーヴェインが何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
その顔には困惑の跡が浮かぶ。
「商人は去年も黒字だったことでしょう」
「そ、そんな馬鹿な……」
カーヴェインは、マルタの混乱など意に介さず、言葉を続けた。
「昨年、不作だったのは事実です。しかし“不作だから商人も損をしている”その認識は誤りです」
「誤り?」
「市場価格は、不作の年は跳ね上がります。去年は平年の一・五倍ほどにまで高騰しました。
あなた方の帳簿は“数量が減っても価格が変わらない”。つまり、不作で取引量が減っても、価格上昇分で十分に黒字が出る仕組みになっている」
「そ、そんな、馬鹿な……」
「ええ、帳簿を見れば一目瞭然でした。商人は去年も黒字です。あなた方だけが、四十年前と同じ金額で働かされ続けている」
カーヴェインは帳簿をマルタの胸元に押し返し、はっきりと言い切った。
「あなた方は――搾取されています」
マルタはセラの方を振り向いたが、セラは既に顔を伏せ、声を殺して震えている。
マルタの顔に浮かんだのは、怒りでも困惑でもない、裏切られたような深い絶望だった。
「ちなみに、教える相手が大人であれば「職業訓練」の名目で罪に問われることはありません。いくら、風聖と言えども、全ての仕事を教師に指導させることは不可能ですから」
「でも……」「だって……」と農夫たちが口々に呟くがその言葉に力はない。
「その事を知った上で、子供たちに教える事を選んだのは、農民の意思を尊重したのか、少ない知識で商人と喧嘩しより条件の悪い生活になる事を避けたかったのか、はたまた農地内で意見が割れ農民たちの団結力が失われるのを懸念したのか……その本意は、私には計り知れません」
カーヴェインは言葉を区切り、初めて冷徹な論理を超えた、人間的な評価を口にした。
「しかし、この場の誰よりも、国の基盤である農業の未来を憂いていたのでしょう」
カーヴェインは目を瞑り、掌を胸に軽く当てて、わずかに首をたれる。
それは、彼なりの最大限の敬意の表明だった。
「ハルヴィンと呼ばれる人が彼か彼女か知りませんが、尊敬すべき賢者であったと断言いたします」
その言葉を聞いた瞬間、セラは糸が切れたように泣き崩れた。
「ありがとうございます……!」と掠れるた声が、静まった農地に響いく。
ハルヴィンの行動でもっとも不利益を被ったはずのセラが、一度もその事を口にしなかったのは、密かに父親の行動を尊敬していたからだ。
彼女は何度も「ありがとう」と繰り返し、とめどなく涙を流し続けた。




