056 無知
宿まで戻ると、玄関先で出掛けようとしていたセラに出会う。
セラの視線は、一瞬にして一点で止まった。
ゼフィルド・カーヴェインだ。
街の人々と同じ様に、その表情には畏敬の念が浮かぶ。
リリメルは、カーヴェインが風聖にとって、どれほど重要な人物であったのかを理解した。
「お出かけですか? セラさん」
リリメルが声をかけると、セラは弾かれたようにリリメルに視線を戻した。
「明日の朝にはこの街を出ますから、最後に農地へ挨拶に行こうと思っています」
リリメルは自分の後ろを振り返り、カーヴェイン、オリバー、アドガードの顔をそれぞれ見回したあとでセラに聞いた。
「私たちもご一緒していいですか? 」
「えぇ、もちろん」
リリメルはセラの横に並んで歩く。
たわいない会話を繰り返していると、すぐに農地の澄んだ空気が漂い、視界が開けた。
田植えを終え、水の張られた田んぼに小さな苗が揺れている。
清々しい水の香りが広大な農地を満たしていた。
先日まで賑わっていた田畑には人の影はまばらだ。
セラはマルタの小屋へと向かって歩く途中、農家の人々が皆セラに声をかけた。
その度にセラは丁寧にお辞儀をする。
「セラさんは愛されてるんですね……」
リリメルが呟くと、アドガードが「そうだな」と短く返す。
マルタの小屋の扉を数回ノックすると、中から元気な子供たちの声が聞こえて、勢いよく扉が開く。
「セラー!」と子供が二人飛びついてきた。
セラは慣れた手つきで、視線を合わせて頭を撫でる。
「おはよう。今日も元気だね。お母さんいるかな?」
子供たちは今度は一斉に家の中に向けて、「かかーー!セラが来たよー!」と叫ぶと、すぐに出てきたマルタが子供たちの頭を小突いた。
「そんな大きな声出さんでも聞こえるよぉ。小さい家なんだからぁ」
「マルタさんおはようございます。急に来てしまってすみません」
マルタは全員の顔を見回して、セラにニコリと笑いかける。
その一瞬――リリメルは、ほんの小さな引っかかりを覚えた。
マルタは街の人とは違い、カーヴェインに視線を留めなかった。
まるで、彼が誰なのか“そもそも知らない”かのように。
「セラちゃんならいつでも大歓迎だよぉ。今日はなんかあったんかい?」
「明日の朝カルディナを出て行くことになりまして、その前に皆さんに挨拶だけでもしたくて……」
そう言って掌を差し出すセラは、どこか不安げだった。
マルタは手を握り返す。
「あらぁ急だねぇ。またどうして」
「いろいろとありまして、マルタさん……」
今にも泣き出しそうな顔を浮かべるセラに、マルタは心配そうに「どうしたのぉ」と何度も声をかける。
セラは眉間に力を込めながら、涙を堪えるように目を瞑る。
無理に笑顔を作ろうとして、表情は歪んでいた。
「家の仕事が暇な時だけでも、子供たちを学校に通わせてあげてください。二人とも頭のいい子で、ちゃんと勉強すればきっと伸びますから」
マルタはセラがなにを心配していたのか分かり、「あぁ」と短く頷いて、家の中から帳簿を急いで持ってきた。
広げた帳簿をセラの前に差し出す。
「セラちゃん見てこれぇ、あたしらは大丈夫よ。今までもずっと上手くやってたの。セラちゃんもハルヴィンさんも良い人だから、言えんかったんよ。ごめんねぇ」
書き直された帳簿を見せながら、マルタはページを捲る。
「ほら、見て去年の収穫量のとこ、随分少ないでしょう?でも、ほらぁ支払いの金額は今年と一緒!昔からねぇこうやって、持ちつ持たれつでやってきたの。だから安心して、そんな顔せんでぇ」
セラの表情はその話を聞いても全く晴れない。
それでもなにかを呑み込もうと、必死に笑顔を作っていた。
「お借りしても?」
後ろからいきなりカーヴェインが手を伸ばす。
マルタが目を瞬いて、片手で帳簿を差し出した。
すぐに視線をセラへ戻して背中をなでる。
カーヴェインはページをペラペラと捲り、最後のページまで目を通すと、拍手するように音を立てて閉じる。
帳簿で指さすように、マルタに向ける。
「街に行かれたことは?」
カーヴェインの唐突な質問にマルタは反射的に答える。
「あたしらは、あんまり街には行かないねぇ。欲しいものなんかは、商人に言えば用意してくれるから、農地を出なくても困らないんだよ」
「その汚らしい身なりでは、笑い者にされますからね」
一瞬にして静まり返り、誰一人、動けなかった。
全員が息を止める中、カーヴェインだけが平然と続けた。
「このような粗末な小屋では、ろくに生活もままならないことでしょう。しかし家財など持つだけ部屋を狭くする無用の長物ですね」
全員がカーヴェインの方を向くが、その表情は何を考えているかわからない。
無表情のまま、毒を吐く。
「便利なものも必要ありませんね。使いこなす能力もなさそうですから」
その場の空気が凍り付く中、リリメルは一人カーヴェインの残酷な発言に興味深く聞き入った。
この話の先にリリメルの求める答えがある。
そんな気がしていた。
オリバーが咄嗟に、カーヴェインの手に持った帳簿を下から突き上げ、顔面を叩きつける。
カーヴェインの鼻先がわずかに赤くなる。
「わ……悪いな!マルタ!!こいつはなんて言うか、人とは交われないタイプの変人なんだよ」
「なんなんだい?!この男は?!」
マルタの怒号が農地中に響き渡り、なんだ、なんだと人々が集まり始めた。
怒り狂うマルタのことがまるで見えていないように、カーヴェインが追い打ちをかける。
「失礼しました。バカにバカと言ってはいけないと、昔誰かに言われた気がします」
「誰かそいつの口を押えてくれ!」
オリバーの上擦った声が、誰に言うでもなく、澄み切った農地の空に消えていった。
次々と新たな顔が押し寄せ、輪はどんどん膨れ上がっていく。
怒号とざわめきが渦を巻き、事態は全く終息しない。
何も聞こえない、何も見ていない……と言わんばかりのアドガードを横目に、リリメルはカーヴェインの毒舌に耳を澄ます。
言い方は悪いが、間違ってはいない——。
街と農地の生活格差はあまりにも酷く、着ている服も、住む家の造りも天地の差がある。
ここにいる農夫たちは気立てがよく、誠実で、働き者だ。
なのに、集まってきた誰もが目の前のゼフィルド・カーヴェインに気付かない。
この根深い格差の源流を、カーヴェインはすでに見抜いているのではないか——そんな直感がリリメルの胸をざわつかせていた。
「あなた方があまりに無知で、哀れなものですから、その愚かさを教えて差し上げようと思ったまでですよ」
「ゼフィーーー!!」
オリバーの制止は、怒号の海では全く意味を持たない。
カーヴェインは憐れみすらこもらない、標本を見るような目で農民を一瞥する。
農民たちはさらに激昂し、口々に「出ていけ!」「二度と来るな!」と叫んだ。
カーヴェインは深呼吸するように、息を吐き出し、肩を軽くすくめる。
「では帰りましょうか」




