055 天才科学者の畏怖
リリメルの顔から鋭さが消え、少女らしい軽やかな笑顔が浮かぶ。
「どうぞ、よろしくお願いします!」
勢いに任せて頭を下げる。
カーヴェインは自分の掌を見つめ、首を傾げた。
気が付けば、彼女の手を取っていた。
なんのバグが起こったのかと、カーヴェインは思う。
「では、随人の縛りを刻みますから、手を前に出して頂けますか?」
リリメルの言葉に、カーヴェインは素直に従った。
翠輝の広がる床を、オリバーは見つめた。
『随人制度』それは教徒の代わりに命を差し出す『奴隷』契約だ。
古い友人が自由を奪われる姿をオリバーは直視できなかった。
一緒にエヴァンを作った日々が輝くほど、眼前に広がる翠輝が濁っていく。
口の中に血の味が広がる。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
『随人制度』を嫌っていたカーヴェインが、自らの意思で随人となった。
「千年刑務所に入るよりはマシだ」そう心の中で何度も繰り返すが、俯いたまま顔を上げられない。
「では教徒様、縛りの確認をお願いします」
リリメルが少し緊張を孕んだ呼吸を繰り返す。
オリバーは下を向いたまま、リリメルが何を躊躇っているのかと首を傾げる。
その疑問の答えは、すぐに出た。
「錘下!!」
直後、激しい振動が石床を震わせる。
オリバーがその衝撃に顔を上げると、カーヴェインとリリメルが、床に倒れ込んでいた。
見えない力が二人を床に磔る。
カーヴェインが呻き、リリメルの顔は苦痛に歪んでいた。
「確認できましたので、解除してください!」
想定外の事態に、慌てた看守が思わず大きな声を上げた。
リリメルが「解」と苦しそうに呟くと、先ほどまでの見えない圧迫から解放されて、カーヴェインとリリメルが同時に咳き込んだ。
カーヴェインが掠れた声を、絞り出す。
「こ、これは、少し圧力が高すぎるのでは……?」
「私もそう思うのですが……」
リリメルは、膝をついたアドガードを一瞥してから看守に視線を戻した。
「アドガードは動けそうでした」
リリメルは再び冷たい床へと顔を沈め、うなだれる。
カーヴェインが化け物でも見るようにアドガードに視線を送った。
「失礼なヤツだ」と言わんばかりに鼻を鳴らし、膝の埃をはらう。
オリバーはそんな様子を眺めながら、リリメルへと手を差し出した。
「どうしてだ?」
早い心音を隠すように、努めて落ち着いた声で問いかける。
リリメルが「ありがとうございます」と手を掴み、なんとか床に座り込んだ。
「教徒に縛りは必要ないだろ?」
「一緒に新しい国を作るんですから、痛みも分かち合わなければ不公平ですよ……ね!!」
「ね!!」の声で勢いよくアドガードの方を振り向く。
俺は悪くないと不満そうに口を尖らせてそっぽを向いた。
「まぁ、でも本当に痛いし苦しいので……極力使いたくは無いですね」
リリメルの泣き言に、オリバーの笑い声が重なった。
「なんだよ、それは」
オリバーの晴れやかな笑い声に、リリメルもつられたように声を上げる。
その時、牢の扉が開く金属の古めかしい音が響いた。
カーヴェインは低い扉に身を屈めながら、ゆっくりと外へと潜り出す。
その手首には、リリメルとの「随人」契約を示す法術陣が小さく刻まれていた。
オリバーはそれでもいい気がしていた。
「改めて、長い旅になりますがよろしくお願いします」
リリメルが立ち上がり、もう一度手を差し出すと、今度はカーヴェインもすんなりとその手を握る。
「面白いものを見せてください」
先ほどまで握っていた本の表紙を爪で弾く。
その乾いた音は、彼の胸の高鳴りと同期しているようだった。
その二人のやり取りを見ていた看守が、なぜか歓喜の声を上げる。
リリメルの両手を掴み、「おめでとうございます!」と「本当にありがとう!」を繰り返す。
まるで解放されたのは自分の方だと言わんばかりの、心からの笑顔だった。
そのまま踊るような足取りで、看守はリリメルたちをロビーへ案内してくれた。
エントランスでは、普段は無表情で容赦のなかった受付の女性までが立ち上がり、満面の笑顔で拍手していた。
玄関を出て振り返ると、看守たちが感極まったようにガッツポーズをしているのが見える。
「苦労されていたんですね」
リリメルがしみじみと発した言葉に、カーヴェインは首を傾げた。
「何かした覚えはないのですが……」
「『何もしていない』からではないでしょうか?」
リリメルの棘のあるツッコミに、カーヴェインはさらに首を傾げた。
オリバーは、そんな二人の姿が可笑しくて、肩をわずかに震わせる。
人で賑わう目抜き通りを、四人はセラの宿屋に向かって歩き出した。
カーヴェインは背が高く痩身で、研究者らしい白いローブの裾を翻して歩く。
何事にも関心を示さなかったカルディナの人々が、カーヴェインの姿を見ると皆一様に振り向いた。
その視線には、畏怖と好奇心が入り混じる。
風聖でもっとも優秀だった科学者を知らない者はいない。
それは路地に入っても変わらなかった。
カーヴェインの姿を見ると、洗濯中の女性の手から衣服がずり落ち、玄関から飛び出した子供が階段で転ぶ。
「オリバーさんとカーヴェインさんって、昔からのお知り合いなんですか?」
気まずそうに距離をとって歩くオリバーに、リリメルは思い切って問いかけた。
「セラさんからオリバーさんは何度も面会に来ていたって聞きました」
途端、オリバーは苦虫でも噛んだような顔をした。
カーヴェインは相変わらず首をかしげるだけだった。
「友人ですよ。面会に来てくれていたのですか、オリバー」
「なんだよ、今さら……何度も声かけてただろ」
「すみません。気づきませんでした」
オリバーの口が大きく開かれ、言葉を失って息を吐く。
「……はぁぁぁ?!」
情けなく声が裏返る。
不思議そうに小首を傾げたままのカーヴェイン。
緊張の糸が切れたように、オリバーが噴き出した。
胸の奥につかえていたものが、朝霧のようにすうっと晴れていく。
「ったく、お前は昔から、そういうヤツだったな」
オリバーは呆れたように笑いながら、情けなく眉毛を歪めた。
横に並ぶカーヴェインは「そうですが、なにか?」と言わんばかりに太々しい。
四人の足音が、静かな街道に確かなリズムを刻んだ。




