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053 目指す場所


 

 出発期限まで刻一刻と時間が迫る中、カーヴェインを連れ出すという最大の難関が全く崩せない。

 

 カルディナを出る期限は明後日だ。

 

 リリメルの焦燥は言うまでもなく、夜の道を歩くその背中は、アドガードが見ても気の毒になるほど小さかった。

 

 宿に戻ると、セラが片付けを終えたロビーで、一人の男性と話をしていた。

 

「ただいま帰りました。セラさん、そちらは?」

 

 リリメルがセラの横に立つ、山高帽をかぶった小太りの男性に視線を向ける。

 

「おかえりなさい、リリメルさん。今、残った荷物の処分を話していまして、こちらは街の骨董品店のご主人です」

 

「どうも」と紳士は短く挨拶し、帽子の鍔を撫でた後、深々と頭を下げて、横を通り過ぎる。

 わずかに漂うペパーミントの香り。

 彼は、宿に残された生活の痕跡すべてに、買値を付けていった。

 

「全て処分してしまうんですか?」

 

 リリメルが、ロビーの隅に積み重ねられた木箱を見る。

 

「はい。私たちじゃ持っていけませんから。最低限の必要なものだけは準備してあります」

 

 セラがカウンターの下を指差すと、そこには着替えや食料が詰められた大きめの鞄が二つ、寂しげに並んで置かれている。

 セラは何も言わず、その荷物をただ見つめていた。

 

 その横顔に、リリメルは元気よく笑う。

 

「大丈夫です!全ては無理でも、家財を持って行けますよ!」

 

 いつものように、胸元の宝石から法術陣(ほうじゅつじん)を展開した。

 翠輝(すいき)と共に、転送用の法術陣(ほうじゅつじん)が書かれた紙が数枚現れる。

 

「この紙を大きな荷物や家財に貼っておけば、居住地が決まった時に、私が転送します!全てを持っていくのは難しいですが、思い出の品や、生活の基盤となる家財はあるに越したことはありませんから」

 

「そんな、そこまでご親切にしていただくなんてお願いできません!」

 

 セラが慌てて辞退しようと手を振ると、リリメルはその手を優しく掴み、紙の札を握らせた。

 

「このお礼は、いつか私が困った時に返してくださいね!」

 

 イタズラっぽくウィンクするリリメルに、セラの頬がふっと緩む。

 

 張り詰めていた心が、少しだけほぐれる瞬間だった。

 

「ありがとうございます。約束します」

 

 その言葉に、リリメルも満面の笑みで頷いた。

 一つだけ残された真ん中の照明が、二人を照らし、部屋の空気をわずかに温める。

 

「さて」

 

 リリメルは一つ息を整えると、カウンターに広大な国の地図を広げた。

 セラも自然とカウンターの内側へ回り込む。


 その姿はまるで、宿屋の主人と客そのものだった。


 二人の様子を眺めながら、アドガードは後ろのベンチで、大きな体をさらに伸ばして欠伸をする。

 

 リリメルはカルディナの位置を指差しながら、計画の第一歩を語り始めた。

 

「カルディナから最も近い街はトリヴァラになります。ただ、今の情勢では、人の受け入れは難しいでしょう」

 

 地図上に指を滑らせ、カルディナの南、森を越えた平野にある二つの都市を示した。

 

「次に近いのは、この二つの都市です。ハーベスト川を挟んで、西に風聖(ふうせい)の街『オルデリア』。そして東には中立国の『北方の街』」

 

 短く息を吐き、目を細めた。

 

「中立国は治安が悪く、管理も行き届いていません。おすすめはできませんね。」

 

 彼女の指はさらに地図を東へと滑り、山々の稜線をなぞる。

 

「これは提案ですが──ノルヴァ山脈の最東端、天空の街『ウィングヘイム』を目的地にしてみるのはどうでしょうか?」

 

 セラは少し俯いた。

 母の足のことが頭をよぎったのだろう。

 

 その沈黙に、リリメルはそっと言葉を重ねる。

 

「移り住むなら、鳥聖(ちょうせい)華聖(かせい)の街しかありません。中立国は危険ですし、月聖(げっせい)は内情が全くわかりません。

 鳥聖か華聖なら受け入れてくれるはずです」

 

「鳥聖は他にも街がたくさんあるだろう」


 アドガードがベンチを軋ませながら、身を乗り出した。

 

「他の都市へ向かうのも遠く、歩けば二週間以上、それ以外の方法を使うと、高額な旅費がかかります。ウィングヘイムが、現実的な落としところだと思います」


 他の客がいなくなったロビーは、静かで広い。

 風が窓を叩く音が何度か響いた。

 

 やがてセラが顔を上げ、静かに微笑む。

 

「いろいろとご配慮いただいて、本当にありがとうございます」

 

 セラは深々と頭を下げる。

 

「──ウィングヘイムまで、よろしくお願いします」

 

 リリメルは胸を撫で下ろし、自然と口角が上がった。

 

「ええ、必ず」

 

 その約束の言葉が、宿の静けさに溶けていった。





 

 翌朝。

 

 冷たい風が石畳をなで、リリメルの金の髪をそっと揺らした。

 

 夜明けの光がまだ淡く街を染める中、リリメルは拘留所に向かう石畳の道を、いつになく力強く進んでいた。

 

「今日こそは」という闘志が、足取りに滲み出ている。

 後ろを歩くアドガードが、大きな欠伸をひとつ。

 

「十日目か。初日の勢いと変わらないな」

 

 ぼやく声にニッと笑って見せる。

 今日は“キャンセル待ち”ではなく、正式な予約による面会。

 

 朝から一時間──たっぷり話せる。

 期待を胸に真っ直ぐ拘留所へと向かう。

 

 目的地のすぐ近く、朝霧の向こうに白い制服の影が見える。

 風衛兵(ふうえいへい)の制服を身にまとい、煙草の煙を指先で弄ぶ長身の男。

 

 オリバー・エルドリッチだ。

 

 初日と同じ──拘留所の花壇の脇に立っていた。

 

「オリバーさん、おはようございます! 今日はどうされたんですか?」


リリメルの明るい声に、オリバーはわずかに顔を引きつらせた。

 

「お前、ほんとに元気だな。明日出発だろ?」

 

 煙を吐き出しながら、苦笑いを浮かべる。

 

「最後に、挨拶でもしておこうかと思ってな。カーヴェインとは話せたのか?」

 

 リリメルの表情がみるみる力を失っていく。

 彼女の目がすがるようにオリバーを見上げた。

 

「何か話すきっかけとか、コツとか、ありますか?」

 

 オリバーは困ったように耳の後ろを掻き、視線を逸らす。

 

「実はな、オレも一度も話せてないんだ。いや、正確には、一度も話を聞いてもらえてない」

 

 オリバーは極まり悪そうに口先に笑顔を浮かべた。

 彼は胸のポケットから皮でできた携帯灰皿を出し、吸い殻を押し込んだ。

 

「だから、今日はオレも後ろで見学させてくれ。お前がもし、カーヴェインを振り向かせられるなら文句を言うつもりはない」

 

 リリメルが少し首を傾げてオリバーの深緑の瞳を見た。

 いつもの駆け引きをするような、影はなく不安げに揺れる。

 

「ダメか?」

 

 どこか頼りないそんな声に、リリメルは力強い笑顔で返した。

 

「もちろん、かまいません。是非連れ出すところを見ていてください」

 

 オリバーがぎこちなく笑った。

 もしかしたら、オリバーという人は、少し不器用なのかもしれない。

 

「ご愁傷様」

 

 後ろからアドガードがぼそりと呟いた。

 一瞬オリバーが振り返ったが、聞かなかったことにして、リリメルの横に立ち拘留所の中へと入っていく。


 アドガードの言葉を、オリバーが理解するのに、時間はかからなかった。


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