052 二人のリーダー
獣人団拠点 南東の山岳部
「う〜ん……なかなかうまく育たないものだねぇ」
長い耳と小さなしっぽを持つ、白い毛に茶色い斑模様のついた兎の女の子が、力なく呟いた。
彼女は手に持った畑の枯れた草を、他の仲間たちと見つめている。
獣人団が山の中核部を削り、石をどけて懸命に耕して作ったお粗末な畑は、山岳地の痩せた土壌に抗いきれず、先月植えたばかりの野菜がすでに枯れ果てていた。
兎たちは、静かな絶望を顔に浮かべながら、枯れた葉を慎重に抜いている。
握られた葉には未だに大地の香りが漂っている。
「文明的な生活は余裕を与える」
そう言って畑作りを始めたのは、獣人団ナハト総帥だ。
彼らの生活は常に、山の幸をいただくか、狩猟の獲物に依存している。
棲家を追われた今は、それだけで食っていくのは難しい。
農耕は獣人が生き残るための、文字通り命綱と言えた。
だが、丸一年を費やしてなお、大地が恵みを授けてくれる気配はない。
兎族の背中を見ながら、畦道に座った少年——ナハトは、分厚い『野菜の育て方』の本を広げ、真剣な顔で読んでいる。
一度濡れて乾いた紙の音が、ページを捲る度に漂った。
水捌けが悪かったのか?それとも、この標高が原因?はたまた土が酸性化してるのか?
いったい何が問題なのか……
彼はページを捲りながら、アレコレと首を傾げたり腕を組んだりして、唸り声を上げる。
文字を読める獣人は少なく、ナハトが必死に本に向き合うのは、未来を思ってのことだった。
これからは、力の時代は終わると、ナハトは信じていた。
「ナハト総帥!これ見て見て!凄い事書いてるよ!」
新聞を片手に、少年の膝の上にダイブしたのは山猫族の女の子、ルーナだ。
黄金色の体に焦茶色の縞模様が規則正しく並び、金色の目がナハトを見つめる。
新聞紙を握った手をナハトに向けて「読んでー!」と楽しげに笑う。
「こらー!!ルーナ!!」
野太い声が響き、兎族が飛び跳ねた。
その声の主は、ルーナの襟元を掴み、ナハトの膝の上から持ち上げる。
黒茶色の大きな体に不釣り合いな可愛らしい耳と尻尾を持つ、熊族の青年、バルトだった。
「総帥に対して失礼だろ!もっと礼儀をわきまえろ!総帥は今、大事なことを考えていたんだ!」
怒鳴ると、ルーナはペロリと舌をだして「そうだったぁ」とあまり反省していないように呟く。
「はははっバルトありがとう!でも僕は気にしてないよ。それより、大きな声を出すと兎の子たちが怖がるから、気を付けてあげてね」
ナハトは、バルトの熱すぎる忠誠心を和ませるように諭す。
ルーナはヒラリと身を翻し、バルトの手を逃れて地面に着地した。
バルトは警戒して毛を逆立てていた兎族の方を向き、申し訳ないと深く頭を下げる。
「それより見て!ナハト総帥。トリヴァラの事件が載ってるよ」
ナハトは本を閉じて膝の上に置いたまま、ルーナの差し出す新聞に目を向けた。
「暁光瓦版社?ゴシップ紙じゃないか。真偽は怪しいな」
ナハトは半信半疑で新聞に目を通す。
次の瞬間、その手が止まった。
「『華教徒とアドガードが協力して、トリヴァラの住人七百名余りを救助』……?」
その見出しに強く興味を惹かれて、新聞を受け取ったナハトが真剣に読み進める。
ゴシップ紙のセンセーショナルな内容は、ナハトにとってはどうでもよかった。
重要だったのは、「華聖」という宗派、そして「アドガード」という名の獣人が、「月聖教祖の起こした事件」に関わり、英雄視されているという事実だ。
「華教徒やアドガードをヒーローにして、誰が喜ぶの?って感じだよねぇ」
ルーナの無邪気な言葉にバルトが続けた。
「報告によると、アドガードに同行していた、記者が書いているようです。
総帥、これは私たちが行動を起こすべき機会かもしれません」
二人はナハトが新聞を読み終えるのを固唾を飲んで待った。
しばらくして、ナハトが首を上げた。
「会議をするから皆を集めてくれる?」
二人を見つめる瞳には、好奇心と野心が光っていた。
月聖 聖地 塔の最上階
部屋は黒い大理石で構成されており、重苦しい静寂に包まれていた。
扉がひとりでに開き、翠輝が部屋全体を翡翠色に染め上げる。
高さ三メートルを超える巨大な扉は、この場所が俗世と隔絶された神聖な空間であることを示していた。
この扉を開く法力を持つものだけが、月聖教祖の部屋に入ることが許される。
「やぁ」
扉を開いた青年に、小さな体に不釣り合いな、豪華で大きな椅子に座ったアルディス教祖が声をかけた。
「アルディス様、失礼いたします。面白い記事を見つけましたので、献上したく馳せ参じました」
青年は、石の床に片膝をつき、深く頭を下げる。
青年の髪は燃えるように赤く、歳の頃は20歳を少し過ぎた頃合いだ。
歴戦の傷跡が顔や体のあちこちに残る、月聖十指に入る実力者、イグニス・レイだった。
「イグニスが、珍しいね。せっかくだから見せてもらおうかな」
アルディスが笑うと、新聞が優雅な弧を描いて宙を舞い、手の中へ納まった。
新聞を広げて目を通す間、部屋は完全な静寂に戻る。
床に跪いたままのイグニスも、アルディスの座る椅子の横で、背筋を伸ばして立つセヴラン・ノクティスも、一言も発さず、ただアルディスの次の言葉を待っていた。
暗い部屋に聞こえるのは、教祖の指先が紙を擦る小さな音だけだ。
暁光瓦版社と書かれた表紙の一面には、月聖教祖アルディスがトリヴァラの街を襲い、甚大な被害を出したという見出しが躍っている。
そこに現れた華教徒のリリメル・ベルと、獣人アドガード・ウィキが協力し、強力な法術と強靭な肉体で民を全て救い出したという。
そして、最後には反転していた街を、アルディス教祖が残した法術陣を利用して元通りに返した。
そう書かれていた。
「死傷者ゼロ……?」
静かな部屋に、アルディスの高い声が小さく響く。
アルディスは新聞を乱暴にセヴランに押しつける。
「死傷者ゼロ?あの災害で?」
アルディスは腹を抱えて肩を震わせる。
その震えが大きくなるに連れて、高らかな笑い声が、部屋の静寂を切り裂いた。
アルディスの足元から雷のように、翠輝が放たれる。
その光は床を覆い、壁を這いずり、天井までも駆け巡る。
すると部屋中にある法術陣がそれぞれに翠輝を放ち始めた。
セヴランの全身から刃が服を貫いて飛び出し、イグニスを激しい炎が囲う。
部屋中のものが宙に浮かび上がり、目に見えない嵐のように吹き荒れた。
混沌と破壊の嵐の中でも、セヴランもイグニスも、まるで「我らが王の圧倒的な力」に酔いしれるかのように、恍惚とした微笑みすら浮かべていた。
彼らにとって、この破壊的な力の行使こそが、アルディスの「偉大さ」の証明だった。
狂ったように笑うアルディスの金色の目は見開かれ、翡翠と金を混ぜ合わせて揺れる。
高らかな声が緩やかに終息に向かうにつれて、浮かんでいたものが元の位置へと戻り、刃も、炎も消えていた。
「僕の法術陣を逆手に使うなんて、随分反抗的じゃないか、リリメル・ベル」
アルディスの眼光が、遠くのリリメルを捉えたように鋭く光る。
「次に会うのが楽しみだ……」
最後の新聞がアルディスの目の前に静かに落ちた。




