050 秘密の同盟
オリバーは宿屋の壁にもたれかかる。
煙草の煙を肺の奥深くまで吸い込み、ゆっくりと、紺色に染まり始めた空へと吐き出した。
拡散した灰色の煙を無意識に目で追う。
その間も、彼の心臓は早鐘のように鳴っていた。
強く握りしめた指先の僅かな強張りが、この状況に対する自分の極度の緊張を物語っていた。
ちょうどその時、玄関の扉が開き、リリメルとアドガードが外に出てきた。
このリリメル・ベルという娘は、宗戦に参戦すらしていない、華聖の教徒だ。
しかし、その行動は常識外れで、現在最強と名高い月聖教祖アルディス・ルナ=ゼノラートの宿敵、アドガード・ウィキを連れ出した。
その上、今度は我らが風聖の爆弾魔、ゼフィルド・カーヴェインにまで声をかけている。
しかも、この少女の法力は(真偽は不明だが)アルディス教祖に匹敵する。
荒唐無稽な危険報告も受けている。
あんなのが二人もいてたまるか。
彼女が風聖にとって、最重要要注意人物であることに、疑いの余地はない。
オリバーはタバコの火を、短く、そして強く、壁の石に押し付けて消した。
リリメルが何かを感じ取りわずかに背筋を伸ばし、真っ直ぐにオリバーと向き合う。
「頼みがある」
重く短い言葉だった。
風聖の師団長という立場で他宗派の、しかも中央が“要注意人物”と呼ぶ相手に頭を下げるなど──本来あってはならない。
それでも、もう他に方法がなかった。
オリバーは深く頭を垂れる。
その沈黙が、夜気を一段と冷やす。
アドガードが小さく眉を寄せ、リリメルは目を丸くする。
すぐに彼女は表情を引き締め、静かに言葉を落とした。
「場所を変えましょうか?」
リリメルたちは宿屋の自室に戻っていた。
外はすっかり夕闇に包まれ、窓の外には街灯の淡い光が滲んでいる。
あれこれ考えた末、ここが一番話しやすいと考えた。
オリバーは促されるまま窓際の椅子に腰を下ろした。
肘を膝に置き、組んだ両手をじっと見つめている。
言葉を探すように唇が動くが、声にならなかった。
リリメルはオリバーの向かいの椅子に、アドガードはベッドの端にそれぞれ座り、その重い沈黙が終わるのを静かに待った。
「セラたちは……」
オリバーは、喉の奥から絞り出すように、唸り声のような低い声を響かせた。
「セラたちは、風聖から聖籍抹消をされた。ハルヴィンの夜灯落ちの件で、連座処分だ。一週間以内にカルディナの街を出て行くことになる」
その言葉に、リリメルとアドガードは息を飲んだ。
オリバーは膝の上で固く組んだ手に力を込め、吐き出すように言葉を続ける。
「街を抜けるのは、普通の人間には死刑宣告と変わらない。森や山には獣人も盗賊もいる。脚の悪い母親を連れて、越えられる道のりじゃない」
オリバーは覚悟を決めたように立ち上がり、椅子を後方に倒す音さえ気にせず、リリメルに向き直った。
彼の瞳は、これまでリリメルが見たどの瞬間よりも真剣で、鬼気迫るものがあった。
「どこか、住める街が見つかるまで、セラたちを一緒に連れて行ってやってくれないか?」
彼は再び、深々と頭を下げる。
風聖の治安組織のトップが、一切のプライドを捨てて頭を下げている。
「オレは聖風衛士団の師団長として、教祖への裏切り者であるハルヴィンの家族に、公に手を貸すことはできない。あんた達に、こんな命懸けの頼みをする義理がないことも、十分承知の上だ」
彼の声は低く震え、限界まで抑圧された感情を物語っていた。
「でも、頼む……!他に、頼めるヤツがいないんだ」
リリメルは小さく息を吸い込み、すぐに微笑みを向けた。
彼女の瞳には、自信だけが浮かぶ。
「オリバーさん、どうぞ、座ってください」
その言葉の優しさと力強さに、オリバーは答えを探るようにリリメルを見つめた。
視線を外さず、ゆっくり椅子に腰を下ろす。
リリメルは拳を握り、その小さな胸を力強く叩いて見せた。
「責任を持って、セラさんたちを次の街までお連れします」
オリバーの表情が一瞬にして崩れ、骨が抜かれたように力なく背もたれにもたれかかる。
彼は天を仰いだ目の上に手のひらを置き、深く、長い安堵の息を吐き出した。
体勢を直し、リリメルに右手を差し出した。
リリメルもその手をとって、しっかりと握手を交わす。
「この借りは必ず返す」
小さくも力強いリリメルの手が、それを包むオリバーの手の芯となったようだった。
彼らが今結んだ非公式な同盟の、確かな証となる。
朝霧の名残がまだ街の輪郭に漂っていた。
カルディナの屋根と屋根のあいだから白い靄が立ちのぼる。
宿の窓辺の椅子に座りリリメルは、その静けさを名残惜しむように眺めていた。
「今日はなかなか晴れませんね」
誰に向けるでもなくつぶやくと、寝台の上でアドガードが大きく伸びをして、起き上がる。
寝ぼけたまま、リリメルの横顔と、霧に沈む街並みを交互に見た。
「今、何時だ?」
「さっき六時の鐘が鳴りましたよ」
アドガードが顔を洗い、支度を整えるのを待って、ふたりは廊下に出る。
拘留所の面会は朝八時からだ。
昨晩、オリバーとセラの旅に同行する約束をした以上、残された六日のあいだにカーヴェインを説得しなければならない。
その困難を思うと、リリメルは小さくため息を漏らした。
重い足取りで階段を下りると、セラがもう働いていた。
昨日と同じ服のまま、目の下には深いクマが刻まれている。
ほとんど眠っていないのだろう。
ふたりに気づいたセラは、慌てて手を拭い、頭を深く下げた。
「昨晩、オリバーさんから聞きました。旅に同行させてもらえると聞きました。本当に、ありがとうございます。」
声が少し震えていた。
その疲れ切った顔を見ると、リリメルの胸の奥に小さな痛みが走る。
「母は足が悪いので、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうか、よろしくお願いします。」
セラはそう言って、掌を開いた。
そこには繊細な細工の施されたネックレスが乗っている。
淡い紅玉のような宝石が朝の光を受けてわずかに揺れる。
「こんなものしかありませんが、受け取っていただけますか?」
リリメルは言葉を詰まらせた。
旅の同行はリリメルからすれば、大したことではなかったからだ。
そのネックレスは、宿屋の娘が持つにはあまりに高価な品。
誰かからの贈り物なのか、それとも家に残る数少ない財産なのか。
大切なものであることは間違いないだろう。
彼女の覚悟にリリメルは息を呑む。
それでも、この気持ちは受け止めなくてはいけない。
リリメルは静かに頷いた。
掌に置かれたネックレスには、まだセラの体温が残る。
「預かっておきます」
リリメルはネックレスを優しく握りしめる。
この旅が、彼女にとって夜明けへ続く道のりになるように……




