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049信頼と尊敬


 マルタが机の上に帳簿を開いて見せる。

 リリメルの目が『支払金額』の項目で止まる。

 

 ――数字が、戻っている。

 

 先日、セラが丁寧に書き直したはずの誤りが、元のままに書き直されていた。

 

「どういうことでしょうか?」

 

 リリメルは首を傾げながら問いかける。

 マルタは、そんなリリメルの困惑を優しく包むように、朗らかに笑った。

 

「ああ、セラちゃんもハルヴィンさんもね、真面目でいい人たちだよ。私たちのこと、気遣ってくれているのはよく分かっているんだ」

 

 マルタはリリメルから帳簿をそっと受け取ると、その厚い紙束を慣れた手つきでめくり、昨年のページを開いてリリメルへ再び渡した。

 

 そこに書かれた数字は、少ない収穫量にしては明らかに多い。

 

 ――“誤り”ではなく、意図ある補填。

 

「去年はね、夏がひどく冷え込んで、数年ぶりの不作の年になったんだよ。収穫は例年の半分にも届かなかった」

 

 マルタは、小屋に差し込む柔らかな光に目を細める。

 

「本当なら村から生活のできない者が大勢出て、離散するしかなかっただろうね」

 

 リリメルは促されるまま帳簿を過去数年分、興味深そうにめくる。

 

 作物の収穫量が年ごとに大きく変動しているにもかかわらず、農夫たちに支払われた「最終的な金額」は、毎年ほとんど変わらない。

 生活が保障されるラインで安定していたのだ。

 

 それは、農家と商人の間にできた、信頼の循環。

 その賢明さにリリメルは感心した。

 

「去年の赤字は、それはもう大きかったはずさ」

 

 マルタは遠い目をして、過去の商人を思い浮かべるように続けた。

 

「うちのばあさんがよく話してくれたよ。長い不作が続いた時はねぇ、商人の服に継ぎ接ぎが年々増えていって、そりゃあ心配になったもんだってさ」

 

 彼女は、力強く、そして穏やかに結んだ。

 

「農家が飢えてしまえば、結局、商人も立ち行かなくなる。私たちは、そういう義理堅い人たちと、ずっと取引させてもらっているんだよ」

 

 リリメルは、ただ「安定」という単語だけで、この村の生活が維持されているわけではないことを腑に落ちた。

 そこには、過去から続く信頼と、人間的な配慮があったのだ。

 セラの真面目な正義感は、この村の「暗黙の倫理」に触れて、逆に混乱を引き起こすところだった。

 

「はっはっはっ!」

 

 マルタは手を叩きながら豪快に笑い、その笑い声が土壁の小さな小屋中に、温かく響き渡った。


 

 リリメルは別れ際、マルタに深く一礼する。

 それは心からの感謝と、この大地に生きる人々への尊敬を込めたものだった。


 三人が農地を後にしたのは、西の空が大地を深く、鮮やかな赤色に染め上げる頃だった。

 夕陽は長く伸びた人影を作り、静寂が農地に降りてきている。

 

 カーヴェインの面会時間には間に合わないので、リリメルとアドガードはそのまま宿まで戻ることにした。

 なぜかオリバーも付いてくるという。

 

 誰一人として口を開かなかった。

 ただ、土を踏みしめる音だけが、静かな農道に響く。

 この沈黙は、お互いの思考を尊重する、静かで重い時間だった。

 

「信頼関係で成り立っていたのですね」


 リリメルとオリバーの間を、夜気を孕んだ冷たい風が通り過ぎる。

 どこかから、夕食の香りが届く。

 

 しばらく黙っていたオリバーが重い口を開く。

 

「なぁリリメル、本当に農民(あの人たち)をバカにしていたのは誰なんだろうな」

 

 リリメルは、オリバーの言葉の意味を理解しようと、足を止めて考え込んだ。

 ハルヴィンは「正しい数字」に戻せば、彼らのためになると信じていた。

 

 しかし、それは、マルタたちが長年にわたり築いてきた、数字を超えた「助け合い」と「義理」の循環を、ただの不正な記録だと断罪したことになる。

 

 ハルヴィンが導入しようとした「正しい数字」は、不作の年に農民たちを飢えさせ、村の秩序を崩壊させる冷たい論理になっていたかもしれない。

 

 なのになぜか、リリメルの胸にはまだ、ほんのわずかにわだかまりが残っていた。

 足元には、まるで街と農地を隔てるように、石畳と農道が平行に続く。

 石畳へと踏み込んだリリメルの靴が、赤いレンガを汚した。



 

 宿の扉を開けた瞬間、リリメルたちは足を止めた。

 

 ロビーの真ん中でセラがひとり、慌ただしく荷物を箱に詰め込んでいたのだ。

 目の下は赤く、顔色もどこか悪い。

 普段の凛とした面影が色褪せていた。

 

 入口で立ち尽くし、戸惑っているリリメルたちに気づくと、セラは慌てて顔を上げる。

 彼女は何かを隠すように、職業的な笑顔を張り付けた。

 

「ごめんなさい、騒々しくて。すぐにお部屋の鍵をご用意しますので、少しだけお待ちいただけますか?」

 

 抱えていた大量の荷物をエントランスの隅へ乱暴にまとめ、急いでカウンターへ滑り込んだ。

 鍵を差し出しながら、いつもの落ち着いた声が響く。

 

「リリメルさん、少し急なのですが、一週間後にはカルディナを離れなければならなくて、もし長期滞在されるようでしたら、他の居心地の良い宿をすぐにご紹介します」

 

 リリメルとアドガードは、思わず顔を見合わせた。

 

「急ですね。何かあったのですか?」

 

 リリメルが、やわらかく首を傾げて尋ねる。

 セラは困ったように、口元だけで微かに笑った。

 小さく震える指先に、木箱で切ったのか細かい傷が見える。

 

 その時、ちょうど別の宿泊客が、酒場の匂いをまとわせながらロビーに戻ってきた。

 

「すみません、少々お待ちくださいね」

 

 セラはそれだけ言い残し、次の瞬間にはいつもの完璧なホスピタリティを身に纏い、客の要望に対応し始める。

 

 リリメルはカウンターから自分たちの部屋の鍵を取り、ロビー脇の古びたベンチへ腰を下ろした。

 

 横に立っていたオリバーは、何か言いたげに深々と息を吐いた後、視線を泳がせている。

 

「煙草、吸ってくる」

 

 オリバーは短く告げると、足早に外へ出ていった。

 彼の沈黙は、セラの事情に心当たりがあると言っているようだ。

 

 やがて客を送り出し、セラが再びリリメルたちの前に戻ってくる。

 

「本当にすみません、リリメルさん。実は、母の体調が悪くて、夕食を用意できないんです。この後も難しいと思うので、申し訳ないのですが、外で召し上がっていただけますか?」

 

 セラは心底申し訳なさそうに深々と頭を下げる。

 リリメルが考え込むようにその姿を見つめていると、アドガードに背中を小突かれる。

 

「残念です。セラさんのお料理、とても美味しかったので……」

 

 リリメルは元気な笑顔を返した。

 セラは少し安心し、表情がわずかに柔らぐ。

 

「ふふ、ありがとうございます」

 

 セラはまるで時間が惜しいかのように、またすぐさま箱へ向き直り、忙しなく荷物を詰め始めた。

 

 弱さを出さないセラの背中が、リリメルには今にも倒れてしまいそうに見えた。


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