045 脱獄犯 イェルド
アドガードが走り出してから、オリバーが風衛兵たちとのやりとりを終え、振り向くまでに数分が経っていた。
彼の足なら、もう拘留所についているかもしれない。
「指示系統が麻痺してるな」
オリバーの声は苛立ちを隠せず、大通りを早足で進み始めた。
遠くで風衛兵たちの号令が重なり、街の空気がざわついている。
「アドガードはどこに行った?」
「先に拘留所に行ってると言ってましたよ」
その言葉に前を行くオリバーの足が止まる。
目を輝かせて振り向いた。
「アドガードのところにオレを運べるか?」
「えっ? あぁ、アドガードさんが転送法術陣をまだ持っていれば可能です」
「ははっ、風衛兵より優秀じゃないか。頼む!」
白いローブの懐から古びた懐中時計を取り出し、ふたを開くと、銀の針が微かに震えている。
法術陣に法力を注ごうとしたその時、彼が掌をかざして制した。
「ちょっと待て、オレの合図で移動してくれ」
視線は時計の針に釘付けだ。
数十秒の沈黙が続く。
彼の呼吸がゆっくりと整う。
「……頼む」
その一言で、リリメルが法術陣を解き放つ。
翠輝が螺旋を描き、空気がギュッと収縮する。
次の瞬間、光が弾け――二人の姿はかき消えた。
「っぐふっ……」
いきなり背中に現れた重い衝撃。
オリバーとリリメルの下でアドガードが潰されていた。
ここは拘留所のエントランス、冷えた石床に三人の呻きが重なった。
「思ってたより早いな」
懐中時計を懐に戻しながら、満足げに立ち上がり、服の埃を払う。
リリメルは落ち着くより先に、狼の肩口に抱きついて、ふかふかの毛並みを堪能していた。
アドガードが小さく唸ると、少女は慌てて取り繕った。
「だ、大丈夫ですか? アドガードさん!」
「なんなんだよ……まったく」
呆れ顔のアドガードが、首を振りながら起き上がる。
拘留所の空気が、いつもより冷たいのは人が居ないからだろうか。
「アドガード、わざわざ拘留所に来たってことは、イェルドを探す手伝いをしてくれるんだな?」
その問いに、短く頷いた。
二人はそのまま階段へ向かう。
オリバーは二階のホールで足を止める。
夜気が冷たく吹き込み、窓の外を覗くと、地面にガラス片が散っていた。
唇を指先で弄びながら、ただ割れたガラスの謎を解いている。
アドガードは足を止めず、まっすぐイェルドの収容牢へと向かう。
「なるほど、そういうことか」
彼の表情が一瞬で険しく変わる。
「イェルドの行き先がわかった」
そう言うが早いか、窓の枠を強く蹴り飛ばした。
ひしゃげた窓枠が土の上に、落下して鈍い音を立てる。
次の瞬間、躊躇うことなく外へ飛び出した。
リリメルがオリバーの背中を追いかけて外を覗いた。
その横を焦茶色の毛並みが勢いよく通り過ぎ、アドガードが美しく大地に着地した。
「どっちも運動神経お化けですねぇ」
リリメルは苦笑いを浮かべ、白いブーツに法力を注ぐ。
翠輝が空気の層を掴み、彼女は宙を蹴って追いかける。
外の路地は狭く、身体を横にしながら、塀の隙間を通り抜ける。
足元にはイェルドが、ガラス片で怪我をしたらしい血の痕跡が点々と続いていた。
アドガードとオリバーはそれを頼りに、風を切るように走る。
しばらく進むと、建物の間を抜けた先に広い通りが見えた。
右手には風聖学術院の高い外壁。
正面には鬱蒼とした森林区。
左手には夜霧のかかった農地が広がっている。
「血の跡が薄くなってるな」
オリバーの小さな呟きに、アドガードは地面の匂いを確かめた。
湿った土に混じる鉄の匂いが、まだわずかに残っている。
「こっちだ」
そう言って、闇に沈む田畑の方へ足を踏み出した。
夜の風がざわりと苗を揺らし、かすかに光る虫が二人の行く手を淡く照らしていた。
遠くの窓に、かすかな光が瞬いたのをリリメルが見つける。
「アドガードさん、オリバーさん。あの集落の右から三番目の家に、何かいます」
指差して示したその先へ、二人が走ると、アドガードの耳に、子供の悲鳴が微かに届いた。
「こっちだ!」
声を張って畦道を一瞬で駆け抜ける。
民家の窓へ飛び込もうとした、その時、鋭い風切り音が夜気を切り裂いた。
矢がアドガードの目前に迫る。
空中では逃げ場がなく、身体を捻り、急所を外そうと試みる。
カンッ
矢は軽快な破裂音を立て、軌道を逸らした。
畦道を走っていたオリバーのエヴァンから立ちのぼる硝煙。
数十メートル離れた夜道で、一本の矢を狙い撃つ技術に、二人も思わず舌を巻く。
バランスを崩したアドガードは、そのまま畑に転げ落ちて泥だらけになった。
空中を走っていたリリメルも、そのほぼ真上で足を止めて、状況を見渡している。
「何してんだ、リリメル!」
オリバーが叫ぶ。
リリメルの指が真っ直ぐに民家の窓を示す。
そこには子供がイェルドに首筋を押さえられ、刃物を突きつけられていた。
細い首筋に触れる度、子供が小さく体を震わせる。
もう片方の手に握られたのは、先ほどアドガードに向けられたボーガンだ。
男の視線は鋭く、こちらの動きを警戒している。
事態を把握した彼もまた、その場で止まり、両掌を見せるように挙げた。
泥だらけのアドガードが、体躯を低く構えその場で息を潜める。
土の匂いが狼の姿を曖昧にした。
現場には動けない静寂が流れ、緊張が場を支配した。
「何が目的だ?」
オリバーが澄んだ声で男に問いかける。
威圧的にならないように、気をつけながら交渉の余地を探る。
イェルドは震える指で子供を押さえ、荒い息を吐きながら答えた。
「み、見過ごせ!オレをここで見逃してくれ。そしたら、この子を渡す。カルディナからおとなしく出ていくから」
オリバーは眉を寄せ、短く頭を掻く。
目の前のイェルドを見つめるその表情は、嘲りでも同情でもない。
「それは無理だ。分かってるだろう?」
「見逃すと言え! 言わねぇならガキを殺してオレも死ぬぞ!」
イェルドの声がヒステリックに農地の夜を揺らす。
夜風が頬を撫で肌を粟立てる中、この男だけが興奮を冷ませずにいた。




