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042 真夜中の追跡


「……オリバーさん?」

 

 振り向いた男がリリメルの顔を確認すると、片手を挙げる。

 

「こんな時間にフラフラしてたら危ないぞ」

 

「空中散歩ですから」

 

「そりゃ優雅なことで……」

 

 にこりと笑ったリリメルに、オリバーは皮肉っぽく鼻を鳴らした。

 取り出した煙草に火をつけて咥える。

 

「そちらの方は?」

 

 リリメルが、オリバーに踏みつけられた男へと丁寧に掌をかざす。

 一瞬、男の顔に視線を送り、煙を誰もいない路地裏へと吐き出した。

 

「拘留所にいた囚人だ。厄介なことにな、夜灯(やとう)の奴らが拘留されてた囚人の牢を全部開けやがった」

 

「全部?」

 

 リリメルの瞳が揺れる。

 耳に残るその言葉を何度も反芻しながら、胸の奥がざわついた。

 恐る恐る声を発する。

 

「カーヴェインさんの牢も?」


「あぁ、まあ、あいつは寝てて全然気づいてなかったがな」


 リリメルは一度大きく深呼吸をして、胸を撫で下ろす。

 人形のように動かないあの背中が、ベッドで眠っている姿をうまく想像できない。

 

「あの人も、寝るんですね」

 

 呟いた小さな声に、オリバーは苦笑いを一つだけ浮かべた。

 

 背後から風衛兵(ふうえいへい)たちの荒い息づかいが近づいてきて、オリバーは吸いさしの煙草を靴底で潰す。

 すぐに立ち上がり、到着した風衛兵(ふうえいへい)に「あとは任せた」と短く告げ、足早に歩き出す。

 辺りを警戒しながら、血管のような街の路地へと進む。

 

 リリメルは、彼の背を追いかけた。

 

「なんだよ、嬢ちゃん。寝なくていいのか?」

 

「すっかり目が覚めちゃいました。探し物ですか?」

 

「あぁ逃げた囚人があと二人いる。そのうち一人は危険な奴だ。早く見つけねぇと」

 

 リリメルは首をかしげる。

 彼の足取りは、探すというよりもどこか決まった場所へ向かっているように感じたからだ。

 路地裏を吹き抜ける冷たい夜風が、オリバーの横顔を(あら)わにする。

 深緑の瞳は眉間にできた深い皺に潰されて、細められていた。

 

「師団長自ら……?」

 

 彼は短く息をつき、街灯の前で歩を止める。

 

 逆光のせいでオリバーの顔は黒く潰れ、表情が読み取れない。

 それなのに何故かリリメルには、オリバーが泣きそうな顔をしている気がした。

 

 オリバーが息を呑み、少しして踵を返して、また歩き出す。

 

「事情があるんだよ」

 

 なんとか絞り出した一言だった。

 

 歩幅を速めるオリバーの背を追って、リリメルは駆け足になる。

 

 不思議とリリメルにもオリバーの行く道がわかった。

 見覚えのある通りを、何度も過ぎていく。

 

 あぁ……この先を右に——そして真っ直ぐ進めば。

 建物の影から、見慣れた宿の明かりが目に入った。

 

 セラの宿。

 

 入口の行燈が、夜風に揺れて小さく明滅している。

 その明かりの前を、黒い羽織が二つ通り過ぎる。

 フードを深く被り、性別すらわからない。

 羽織の裾がふわりと広がり、黒い鳥のように街路へと溶けていく。

 

「——ハルヴィン!!!」

 

 唐突にオリバーが、咆哮を上げる。

 叫ぶや否や、全力で二人の後ろ姿へ駆け出した。

 二人も振り向かずに目配せして走り出す。

 

「止まれ!ハルヴィン、止まれ!!」

 

 オリバーが空へ向けて威嚇射撃を放つ。

 乾いた音が夜の街にこだました。

 

 その影は歩みを止めることなく、路地の奥へと吸い込まれて消えていく。

 

 リリメルは空へと跳び上がり、上空から姿を探したが、路地を曲がったはずの二人は忽然と姿を消していた。

 

「……おい」

 

 下から聞き慣れた声が響く。

 アドガードが宿の窓から顔を出し、こちらをじっと睨んでいた。

 

「おはようございます。よく眠れました?」

 

 アドガードの不機嫌そうな眉間の皺に、誤魔化すような軽口が出る。

 

「……置いて行くなよ」

 

小さな声で呟き、窓から身を乗り出して屋上へ飛び上がる。

垂直の壁を飛んだはずなのに、屋上にしっかりと着地する。

 リリメルはアドガードの運動神経の高さを改めて感じた。

 

 ちょうどそのとき、オリバーが角を曲がる。

 二人は彼の目の前に着地し、同時に視線が交わる。

 

「どっちに行った?」

 

 切羽詰まった表情で詰め寄るオリバー。

 

「すみません、見失いました。でも曲がってすぐは直線ですし、もしかしたらこの辺に隠れているのかもしれません」

 

 右足が落ち着きなく揺れ、組んだ指先が細かく腕を叩く。

 視線は鋭いのに、落ち着きなく動き、噛み締めた歯が唇の隙間から僅かに覗く。

 

 アドガードがリリメルに耳打ちした。

 

「誰か探してるのか?」

 

「えぇ、ハルヴィンさんを……と言っても、暗くてあれがハルヴィンさんだったのかははっきりわからないのですが」

 

 あぁと小さく頷くアドガード。

 

「あれはハルヴィンだったぞ。もう一人は、今日の昼間拘留所にいた奴だ」

 

 バッとオリバーが視線を上げて、アドガードに詰め寄った。

 

「ハルヴィンと話したのか?」

 

 その勢いに、アドガードは思わず体を引く。

 

「あぁ、さっき少し話した。夜灯(やとう)に入らないか、と聞かれたので断ったら、サッサと出て行ったぞ」

 

 オリバーの瞳に影が差す。

 キツく結ばれた唇が僅かに形を変えた。

 

 遅かった……

 

 力なく下を向く彼に、状況の掴めない二人は視線を合わせる。

 

「ハルヴィンを見つけることはできると思うが……」

 

 アドガードの言葉に、オリバーは咄嗟に顔を上げる。

 荒い呼吸のまま、まるで縋るような眼差しで二人を見た。

 震えながら動いた唇は、「どうやって?」と問いかける。

 オリバーの焦燥に、リリメルはほんの少し胸が痛んだ。

 自分にできることは協力しようと思う。

 

 アドガードは無言で頷き、次の瞬間には狼の姿へと変わっていた。

 焦茶色の毛並みが青白い月光を反射する。

 路地の石畳に鼻先を近づけ、しばらく匂いを探ったあと、廃業したバーの前で足を止めた。

 

「こっちだ」

 

 鼻先で入口を示す。

 

 オリバーとリリメルが視線を交わし、その後を追った。

 

 バーの外観は、看板が朽ちて傾き、窓には内側から木の板が打ち付けられている。

 塗装の剥げた看板の文字が、この建物が放置されて長いことを告げていた。


 木製の扉は雨水が侵食し、触れれば剥がれ落ちるほど腐敗が進んでいた。

 その扉にはあまりに不釣り合いな、真新しい鍵が開いたままかけられている。


 取手を押すと思いのほかスムーズで、嫌な音一つしない。

 

 一歩足を踏み入れると、芳醇な酒と先程まで燻らされていたタバコの香りが鼻をついた。

 椅子は整然と並び、カウンターの上には拭かれたばかりのグラスまで残っている。

 そこはまるでつい先程まで、営業していたかのようだった。

 

 アドガードはまっすぐにカウンターの内側へ入り、床を軽く叩いた。

 爪でも節でもなく肉球で優しく押すような仕草。


 オリバーはその動きを見て、すぐに屈み込み床を指先で探り始める。

 

「犬になると鼻が利くんですか?」

 

 オリバーの様子を見守るアドガードの顔を覗き込みながら、リリメルが興味深そうに声をかける。

 

「狼だ。いや、鼻は同じだが、人間の姿でこれをやると——なぁ?」

 

 リリメルの納得と、オリバーの低い呟きはほぼ同時だった。

 緩みかけた空気が一気に引き締まる。

 

「——ここだ」

 

 オリバーが片側を押すと、反対側が空気を弾かせて持ち上がる。

 下には狭い階段と、黒々とした地下通路が現れた。

 吹き上がった風の中に、僅かにオイルの香りが混ざっている。

 

 オリバーの眼光が鋭く光り、迷いなくその暗い穴へと飛び込んだ。

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