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041 ハンドサイン


 看守の声で目を覚ます。


 小窓から差し入れられた金属盆が、静寂を波立たせるような高い音を立てて机に置かれた。

 

 ベッドと呼ぶにはあまりに硬い布団の上、ハルヴィンは緩やかに瞳を開ける。

 疲れが溜まっていたのか、思っていたよりもずっと長く眠れたが、休めたかと聞かれれば疑問は残る。

 痛む背中に力を込めて起き上がった。

 

 机の上に置かれた金属盆の上には、乾いたパンと、野菜を煮詰めただけの濁ったスープ。

 それに申し訳程度の干し肉が浮かんでいる。

 

「いつ見ても食欲をそそらないな」

 

 自嘲気味に笑い、ハルヴィンはそれでも食卓の前に座り、手を合わせた。

 少しでも力をつけておかなくてはいけない。

 

 食事を終え、昨日と同じように身支度を済ませる。

 拘束されてからずっと着ている服が、わずかに鉄と汗の臭いを帯びている。

 

 何もすることがない時間は、ただ静かに重く、ゆっくりと流れる。

 考え事をすればするほど、時が進まないように感じた。

 

 ぼんやりと今後のことを思案していると、階段の方から二人分の足音が響く。

 

(昨日の二人組だろうか。もう来ないかもしれないと思っていたが)

 

 興味とは一過性のものだ。

 昨日の言葉がどんな形で伝わっているのか、ハルヴィンには見当がつかなかった。

 

「こんにちは」

 

 独特の抑揚を持つ声が廊下に響く。

 見覚えのない男が一人、格子の向こうに立っていた。

 

 男は陶器職人が着るような作業服を纏い、腕を軽く組み体の前で交差させている。

 細い目が、まっすぐこちらを見据えていた。

 

 ハルヴィンは静かに立ち上がり、牢を挟んで一メートルほど離れた位置に立つ。

 手を伸ばしても届かない距離――それを無意識に測っていた。

 

 「こんにちは、お元気でしたか?」

 

 見知らぬ男に対して、なぜかそう答えるのが自然に思えた。

 

 男の口元がゆるみ、ニッと笑う。

 交差していた右腕の袖をわずかに引き、手首の甲を見せた。

 

 そこには、黒いカラスの紋様――『夜灯(やとう)』の印。

 

 「元気してましたよ。と言っても、先生にお会いしたのは随分前ですけどね。……覚えてますか?」

 

 「正直に言うと、申し訳ない。もう一度、名前を聞かせてもらえますか?」

 

 穏やかに微笑むハルヴィン。

 その瞬間、男は看守から死角になる位置で、右手の甲をわずかに動かした。

 

 ――開いて、閉じてを二度。

 

 夜灯(やとう)のハンドサイン開始の合図。

 

 「霞夜かやですよ。二十年ほど前に、先生の宿で新しい食器を納めさせてもらいました」

 

「あぁ……あの食器、今でも使わせてもらっていますよ。色味が気に入っていてね」

 

 ありもしない話を、さも懐かしそうに語った。

 

「当時もそう言ってくださいましたね」

 

 霞夜(かや)が肩を竦め、意味ありげに笑う。

 

「また是非とは言いたいのですが……状況が状況ですからね」

 

 わざとらしい軽口の裏で、霞夜(かや)の指先がかすかに動いた。

 

 親指と人差し指を立てた後、人差し指を折り親指だけを残した。

 (さ……)

 次は拳を作り、人差し指だけを立てる。

 (い……さい)

 小指だけを立てて、一度戻しもう一度小指を立てる。

 (ん……サインか)

 ハルヴィンは静かに息を吐き、ハンドサインの内容を追う。

 

『サインがわかれば、咳払い』

 

 咳払いをひとつ。

 短く、自然に。

 

 霞夜(かや)の目が細められ、確認の色が宿る。

 

「娘のセラにも良くしてやってください。あの子は働き者でね、少し頑張りすぎるところがあるんです」

 

『決行は22時』

 

「私がお会いした時は、まだ赤ん坊でしたね。今はすっかり大きくなられて」

 

『街でボヤ騒ぎを起こす』

 

「えぇ……ただ、今回のことで随分心を痛めているようで、少し心配ですよ」

 

風衛兵(ふうえいへい)が出払ったら』

 

「こんなことを言えば、私も思想犯扱いでしょうが……十五年の刑期は、あまりにも重い」

 

 霞夜(かや)は頷きながら、指を動かす。

 

『看守室を襲う』

 

「そう言ってくださる人がいるだけで、少し救われます」

 

『牢の鍵を開ける』

 

「知っていますか?隣の囚人が何をしたのか」

 

『合図があるまで動くな』

 

「いえ、他に囚人がいることすら知りませんでした」

 

『合図は西の空に煙が上がる』

 

「幼い子供を二人も殺めたそうですよ。……想像したくもありません」

 

『すべての囚人を逃す』

 

 ハルヴィンの手がわずかに震えた。

 思わず霞夜の顔へと視線を走らせたが、その表情は先ほどまでと何ら変わらない。

 今のサイン……本当に「すべて」と言ったのか——脳裏で何度も繰り返す。

 

 瞬間、視線が勝手に上ずった。

 看守が、廊下の奥の椅子に腰かけ、腕を組んでいる。

 こちらを見ているのか、それともただ退屈しているだけなのか。

 

 ハルヴィンは呼吸を止めた。

 

 少しでも不自然に見えれば、全てが終わる。

 

 ほんの数秒の沈黙。

 

 やがて看守が鼻を鳴らし、あくびをひとつ。

 背中に冷たい汗が一筋流れた。

 

 ——気づかれてはいない。

 

 だが、心臓の鼓動がもう隠せないほど速い。

 汗が額を伝い、喉が乾く。

 すべての囚人を……逃す?

 

 いったい今、この拘留所に何人が収監されているのだ。

 何人がどんな罪を背負ってここにいるのか。

 

「その囚人と、ハルヴィンさんの刑期は同じだそうです。……理不尽ですよね」

 

『逃げ切るため、この犠牲は必要』

 

 言葉が出ない。

 表情を取り繕おうとするほど、どんな顔をしていいのかわからなくなる。

 

 胸の奥で、脈が早鐘を打つ。

 

「ハルヴィンさん……」

 

 霞夜(かや)が声を落とす。

 

「わかりますよ。あんまりですよね」

 

 何か言わなくては、変に……変に思われてしまう。

 焦りはますます言葉を減らしていく。

 全てを見透かすように、霞夜(かや)の瞳が光った。

 

「でも、正義のためには、時に犠牲が必要なんでしょう。——心から、ご健闘をお祈りしています」

 

 霞夜(かや)はそう言って、手を差し出した。

 

 その意味を、ハルヴィンは理解している。

 握れば、同意の証。

 拒めば、夜灯(やとう)と繋がっていたことが、明るみに出るだろう。

 そうなれば死刑だ。

 

 震える手が、ゆっくりと霞夜(かや)の手に触れる。

 次の瞬間、力強く引き寄せられた。

 掌を通じて伝わる熱と圧。

 霞夜(かや)の目が、まっすぐにハルヴィンの覚悟を測る。


 私はただ正しくありたかった……

 私はまだ、自分が正しいと言えるだろうか?


 看守が立ち上がり、霞夜(かや)の手が離された。

 

 小さく手を挙げた後ろ姿に、空気を飲み込む音がした。


 

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