040 ハルヴィン・マレル
翌朝。
拘留所の窓は西を向いているため、朝になっても部屋の中はほの暗いままだった。
石壁に染みついた湿り気が、夜の名残をそのまま閉じ込めている。
ハルヴィンは椅子に座ったまま、ふいに目を覚ました。
いつ眠ったのか、まるで記憶がない。
(今日は、セラとたちが面会に来てくれるはずだ。――こんな顔では、きっと心配をかけてしまう)
窓ガラスに映る顔は、頬が痩せ、目の下に隈ができている。
面会までのわずかな時間、少しでも体を休めようと簡素な寝台に身を横たえた。
目を閉じた途端夢が、容赦なく押し寄せてきた。
昨日の裁判が、再び幕を開ける。
床に這いつくばる自分、見下ろす議員たちの冷たい視線。
そして壇上に立つ監督官――なぜかその顔が、オリバーに変わっていた。
「被告、ハルヴィン・マレル。――有罪」
その声を合図に、議員たちが風船のように膨らみ始める。
膨らみ、膨らみ、空間を埋め尽くし、ハルヴィンの身体を押し潰していく。
息ができない、胸が焼けるように熱い。
苦しくて、もがいて――そして、はっと目を覚ました。
自分の手が首を絞めていた。
咳き込みながら起き上がり、荒い呼吸を整える。
(……夢、か)
寝具を整え、立ち上がる。
鏡代わりの窓に映る自分を見て、ハルヴィンはふと息を吐いた。
頬に触れると、無精髭がざらりと指先を撫でる。
水差しに残った冷たい水で顔を洗い、古い剃刀で慎重に髭を剃る。
震えを抑え込むたびに、剃刀の冷たさが喉元に刺さるようだった。
髭を剃り終えると、手ぐしで髪を整えた。
乱れた前髪を押さえ、息を吐く。
その瞬間――エントランスの方から、聞き慣れた子供たちの声が響いてきた。
(……来たな)
胸の奥に張り詰めていたものが、すっと解けていく。
もう一度、窓に映る顔を見る。
そこには、さっきまでの憔悴しきった囚人の顔ではなく、教師としての自分が戻っていた。
ハルヴィンは椅子に腰を下ろし、ゆっくりと深く息を吐いた。
一人ひとりの顔を思い浮かべながら、何を話そうかと考える。
外の光はまだ淡く、石壁を白く照らしていた。
しばらくして、複数の足音が軽やかに階段を駆け上がってくる。
踊るように響くその音は、どこか懐かしい。
「せんせー!」
弾む声が廊下にこだまし、ハルヴィンの胸を突いた。
思わず笑みがこぼれそうになるのを必死に堪える。
子供たちが我先にと姿を見せ、その後ろからセラが現れる。
さらにその後ろに、白地に金の装飾を施した華聖の聖服をまとった少女と、天井に届くほどの大男が控えていた。
ハルヴィンにはどちらも見覚えがなかったが、今は余計な詮索をする時ではない。
静かに椅子から立ち上がり、鉄格子の前まで歩み寄った。
「皆さんお元気でしたか?私がいなくてもちゃんと勉強はしていますか?」
その声に、子供たちが一斉に笑顔で頷く。
変わらぬ無邪気さに、胸の奥の痛みが少しだけ和らいだ。
一人ひとりに言葉をかけ、学びのコツやこれからの課題を伝える。
子供たちの目は輝いていて、この子たちの未来に自分が少しでも関われたのだと思うと、間違っていなかったと確信できた。
最後にセラと向き合う。
わずかに頬がこけ、目元に疲れが見える。
(……少し痩せたな。すまない、セラ)
鼻先にツンとした痛みが襲うが、散々迷惑をかけている私が悲しそうな顔をするべきではないと、振り払う。
何度も何度も心の中で詫びながら、絞り出すように問いかけた。
「そちらの方々は?」
セラに戸惑いが見えると、金髪の少女が一歩前に出る。
「私は華教徒のリリメル・ベルと申します。そしてこちらは――」
彼女の声が、途中でわずかに震えた。
ハルヴィンはその一瞬で察する。
華聖の教徒があのアドガード・ウィキを連れ出したと世間を騒がせた記事。
人間の姿をしているとは書いていたものの、ここまで見事に化けているとは予想していなかった。
「私はリリメル・ベル、こちらは、随人のアドガード・ウィキです」
リリメルの口からその名が告げられる。
空気が一瞬にして凍りついた。
子供たちが息を呑み、セラも皆と同じように一歩退いた。
月聖教祖が広めた“恐ろしい獣人”の寓話。
それは幼い子を眠らせるための物語であり、大人が戒めとして語る恐怖の象徴でもあった。
その象徴が、今――鉄格子の向こうに息づいている。
ハルヴィンの脳裏に、黒い打算が過る。
(法術の枷に囚われている今なら、暴走の心配もない。――この力を借りられるうちに、私が味方であると思わせておくのは悪くない)
咳払いひとつ。
胸の内の思惑を鎮め、顔にいつもの穏やかさを貼りつける。
「皆さん、いけません」
冷めきった空気の中、静かな声が響いた。
「知らないことを恐れてはいけません」
ハルヴィンは鉄格子越しに右手を差し出す。
皆の視線を受けながら、まずは華教徒と形式的に握手を交わす。
そして――本来の目的であるアドガード・ウィキへと手を差し出した。
その手が一瞬、ためらう。
これまで彼が受けてきた偏見と孤立の深さが、その一瞬の静止にすべて滲んでいた。
その手をこちらからしっかりと握ると、目を見開いて視線を泳がせる。
子供たちが、アドガードの足にしがみつき、次々に「ごめんなさい」と口に出す。
どう扱っていいか戸惑い、耳の先が赤く染まる。
(思っていたよりずっと純朴なようだ)
帰り際、セラがそっとハルヴィンの肩に触れた。
その手はゆっくりと腕を伝い、やがて慈しむように彼の手のひらへと滑り込む。
セラは何も言わず、ただまっすぐにハルヴィンを見つめていた。
残された掌の中には、小さく折りたたまれた一枚の紙が握られている。
温もりが消えると同時に、静寂が戻る。
その手紙が、彼の運命をまた一歩、夜へと導いていくことを――まだ誰も知らなかった。
看守が華教徒とアドガードを連れて下階へ降りていくのを見送ると、椅子にゆっくり腰を下ろした。
手渡された紙をそっと開く。
淡い明かりの下で文字が揺れる。
ハルヴィン・マレル様
審議の結果を聞きました。
あまりにも理不尽で、私も心が痛みます。父さん、どうか気を落とさないでください。
最近は、良くないことが続いていて、私も少し気が滅入っています。
夜、店の前の明かりをつけるとカラスが集まってしまうから、最近は明かりを消していたの。
でも、明日は特別な日だから、夜も更けた頃に明かりをつけようと思うわ。きっとまた、カラスが集まって賑やかになるでしょうね。宿泊客からの苦情が出ないといいのだけど……
父さんがよくおっしゃっていたこと、覚えています。「生きていれば、きっといいこともある」私もその言葉を信じて、もう少しだけ頑張ってみます。
どうか、父さんもお元気で。
セラ・マレル
小さく息を吐き出す。
気づけば、しばらく呼吸をしていなかった。
鼓動が速い。
「カラス」は夜灯の隠語――つまり、明日の夜中に私は風聖を裏切り、夜灯についていく。
後悔はない。
しかし、残していく家族のことを思うと、胸が痛んだ。
セラらしい柔らかな文字を、親指で撫でつける。
せめて、この手紙が他の誰にも見られないように……
ハルヴィンは手紙をそっと懐のポケットへとしまい込む。




