039 第三級思想犯
ハルヴィンは、冷たい石畳の上に正座させられていた。
後ろ手に繋がれた鎖は、ほんの少しでも動けば擦れ合って鈍い音を立てる。
若い風衛兵がその腕を強く押さえつけ、逃げる素振りすら許さない。
正面、床より二メートルほど高い壇上には、風聖評議会の三名の議員が並んで座している。
その前に立った聖風衛士団の監督官が、一歩進み出て淡々と罪状を読み上げた。
「被告、ハルヴィン・マレル。
あなたは正式な教職資格を有さぬ身でありながら、無断で学問を教え、私塾を運営した。
これは教育法における第三条、ならびに思想統制令に対する明確な違反であり、智の秩序を乱す反逆行為にも等しい。
また、あなたの塾においては『民が自ら考える権利を有する』などの危険思想を広めた疑いがある。以上の件につき、厳正な処分を求めます」
まるで決められたセリフを読み上げる舞台俳優のようだ――と、ハルヴィンは思った。
この場で、自分の意見を求められることはない。
ただ俯き、石の床に映る影を見つめるしかなかった。
――間違っているのは、どちらなのか。
喉の奥で言葉が燃えた。
ハルヴィンは唇を固く結び、胸の奥から湧き上がる怒りを、必死に呑み込んだ。
何度も、何度も繰り返した、農地への学舎創設の要請は、すべて無視された。
子どもたちが学べぬまま働き、読み書きすらできずに大人になっていく――その現実を、彼らは知らぬはずがない。
いや、知っていて目を逸らしているのだ。
それが、どれほど罪深いことか。
「反逆行為」など、身に覚えはない。
胸の奥が焼けるように熱い。
怒りと無力が混じり合い、ハルヴィンの心をどす黒く染めていく。
それでも、表情は動かない。
わずかに唇を震わせ、言葉にならない声が喉の奥で溶けた。
カッ――ン。
ガベルの音が法廷に響いた。
冷たい音が石壁を何度も跳ね返る。
「――ハルヴィン・マレルに判決を言い渡す。
本件、第三級思想犯と認め、情状酌量の余地はない。よって、懲役十五年を命ずる」
その瞬間、すべての音が遠のいた。
議員の声も、鎖の擦れる音も、誰かの溜息も、全部。
代わりに、胸の奥で何かが静かに『折れる』音がした。
噛み締めた唇から血が一筋、床へと落ちる。
ハルヴィンはただ、俯いたまま動かなかった。
だがその沈黙は、屈服の印ではない。
――この沈黙の奥で、何かが静かに芽吹いていた。
奪われた言葉の代わりに、燃えるような意志が宿っていく。
まだ、誰もそれに気づいていなかった。
ハルヴィンは再び拘留所へ戻された。
あと七日もすれば、生まれ育ったこのカルディナを離れ、風聖の治安を司る街、アイゼンガルドへと連行される。
薄暗い牢の中央に、一脚だけ置かれた木製の椅子。
そこに腰を下ろしたハルヴィンは、膝の上に置いた拳を震わせていた。
――セラや妻は、無事だろうか。
農夫や職人たちは、私がいなくても、ちゃんと誤りを正して、自分たちの利益を守れるだろうか。
格子の向こうを睨みつけても、ハルヴィンの目には何も映らなかった。
白く濁った光だけが差し込んでくる。
どのくらいの時間が経ったのか。
石の階段を、軽い靴音が駆け上がってくる。
ハルヴィンが顔を上げると、そこには見慣れた男が立っていた。
「やぁ先生、久しぶりだな」
看守も付けずに現れたのは、オリバー・エルドリッチ――自分が大学に通っていた頃、家の近くの製鉄所を経営する家の子だった。
勉強も家業も嫌いで、よく理由をつけては逃げ出していた、あのやんちゃな子ども。
今は白い風衛兵の制服を身にまとい、胸には立派な星章が輝いている。
「お久しぶりですね。ずいぶん立派になって」
「揶揄わないでくれよ」
照れ隠しに耳の後ろを掻く癖は、昔と変わらない。
その仕草に、ほんのわずか心が和む。
「今日もカーヴェインくんに会いに?」
オリバーはカーヴェインが捕まってから、定期的に面会に訪れていた。
その折に、宿の方にもよく顔を出してくれていた。
ただ風衛兵の制服を着ているのを見るのは初めてで、本当に立派になったものだと目を細める。
「あぁ、でも相変わらず一言も話してくれやしない」
オリバーは溜息を吐き、視線を逸らした。
「きっと、オレのことを怒ってるんだろうな……」
オリバーの言いかけては飲み込むような表情を察し、ハルヴィンは次の言葉を待った。
昔のオリバーなら、自分よがりな意見も躊躇なく口にしたはずだ。
しかし今は、立場がそれを許さないのか、言葉を濁して会話をすり替えたことに気付く。
「先生も……どうしちまったんだよ」
「どうしたとは?」
「なんで利にもならない相手に勉強なんて教えたんだよ」
“利にもならない”――“勉強なんて”。
その言葉が、胸の奥に鋭く突き刺さった。
見慣れたオリバーの顔が、少しずつ陰っていく。
その向こうに、冷たい“制度”の影が見えた。
「先生は、もう少し待つべきだったんじゃないか? 風聖だって、そう簡単に塾や学校を増やせるわけじゃないんだ」
――待つ?
私は二十五年、待ち続けた。
予算も、土地も、現実的な障害があることは理解していた。
だがどうだ?この二十五年の間に幾つの学校が新設された?できたはずだ。
弱き者に目を向けようとする、たった一つの誠意、それさえあれば……
握りしめた拳に、爪が食い込む。
怒りが喉の奥までせり上がるのを、かろうじて飲み込む。
「上の連中だって、問題には気づいてるさ」
――気づいている?あぁそうだろうとも
だが、ヤツらは知らない、農地の者がどういう生活をしているのか。
切り捨てられた者たちが、どんな顔で働いているのか。
オリバーの顔が黒く塗りつぶされ、白い風衛兵の制服だけがそこに浮かんだ。
この男は、誰だ。
今ここに立っているのは、権力に飼われたただの犬だ。
「先生……夜灯と繋がってたりしてないよな?」
ハルヴィンの心臓が、一瞬跳ねる。
見知らぬ風衛兵――いや、オリバーだった男が、心配そうな視線を向けながら核心を突く。
あぁ、そうか……知っているのだな。
何もかも。
「オレが……オレが上と掛け合って、減刑されるように取り合うから、変な真似だけはしないでくれよ」
ハルヴィンはゆっくりと息を吐いた。
そして、まるで芝居の一幕のように穏やかに微笑んだ。
「えぇ、貴方を信じていますよ。夜灯のことについては、無論のこと」
オリバーの表情が不安と安堵が入り混じり歪む。
それを見届けてから、ハルヴィンは静かに視線を落とした。
――権力の犬め。
心の中で呟いたその言葉は、もはや怒りではなかった。
ゆっくりと、凍りつくような決意へと変わっていく。




