038 始まり
宿泊室に戻ってから、リリメルはずっと机の前に座っている。
ハルヴィンと会ったあの日以来、別人のように静かだった。
ペンを握り書いては消してを繰り返す仕草は、鉄格子の奥にいるカーヴェインのようだと、アドガードは思う。
(この街に居ると皆あんな風になるんだろうか)
天井のシミを眺めながら、時折リリメルの小さな背中に視線を送る。
一度だけカーヴェインとも再面会できたが、相変わらず成果はなく、それでも彼女は落ち込む様子も見せない。
ただ、心の奥で何かを組み立てているような、深い沈黙の中にいた。
アドガードには、そんな彼女の纏う空気がかえって心地よく、ベッドの上で大きく欠伸をすると、そのまま深い微睡みへと落ちていった。
夜も更け、宿の灯が静かに揺れる頃――
不意に、窓の外からざわめきが聞こえる。
リリメルは立ち上がり、カーテンを開けて遠くの市街地に目を凝らす。
多様な色を湛えた火柱が、星を隠すように煙を上げていた。
反射的に窓を開け、窓枠に足をかけた。
後ろで規則正しい寝息を立てるアドガードに一瞬視線を向けたが、そのまま白いブーツに法力を注ぎ込む。
法術陣が浮かび上がり、一歩空中へと歩みを進めると足元に短い光の足場が生まれた。
風を蹴るたび、彼女の身体を空へと押し上げる。
街灯の炎を目印に、まっすぐ――宙を翔ける。
煙にのって多様なものが燃えた後の嫌な匂いが鼻をついた。
火柱の源は、市街地の外れにある廃棄物の集積所。
複数の風衛兵がすでに現場に駆けつけており、火はまもなく鎮火された。
建物への延焼もなく、安堵の声が広がる。
「ここもか……」
「まったく、今日はどうなってるんだ」
不穏な呟きが、あちこちで聞こえ、リリメルはそっと高度を下げた。
現場の一角へと降り立つと近くの風衛兵に声をかける。
「なにかありましたか?」
リリメルの姿に、男は警戒するように視線を向け、頭の上から足先まで、無遠慮に値踏みするような視線を走らせる。
形式的に帽子の鍔を指で撫でながら、短く答えた。
「ご心配なく、ただのイタズラです。すぐ片づけますので」
そう言い捨てて、去っていく。
ゴミ捨て場のすぐ側で、別の風衛兵が地面に落ちた何かを拾い上げ袋に入れる。
「またこれか、まったくいい加減にしてほしいよ」
袋の中で、金属の板が光を反射した。
カラスの刻印――夜灯の紋章。
“強きを挫き、弱きを助ける”を標榜する義賊の集団。
彼らを救世主と呼ぶ者もいれば、ただの破壊者と罵る者もいる。
夜の闇に灯を掲げるはずのその存在が、いまは混乱の象徴となっていた。
風衛兵たちが片付けに追われる中、リリメルは視線を上げ、再び宙へと歩き出す。
夜気が頬を撫で、その冷たい空気が肺を刺す。
――パリーン
遠くからガラスの破砕音が響く。
風衛兵たちが一斉に顔を上げ、苦々しげに見合わせる。
リリメルは小さく息を吐き出してから、空中を蹴った。
「せっかくなので、見ておきましょうか。」
独り言のように呟き、音のした方角へ――
夜の帳の中、翠輝を残して飛び去っていった。
音がしたのは、官僚地区の方角だった。
リリメルは空中に浮かんだまま、首を動かして周囲を見回す。
夜の街は不気味に静かで、風がひと筋、リリメルのスカートを舞い上げた。
――ガラガラッ。
何かが崩れ落ちる音が聞こえ、足元へと視線を凝らす。
建物に挟まれた通りの向こうで荷をひっくり返して逃げる男が一人、風衛兵に追われていた。
路地には転がった木箱や樽が散乱し、舞い上がる粉塵が追手の視界を奪う。
男は何度も振り返りながら、必死の形相で駆け抜けていた。死に物狂いと言っても過言ではない、切迫した表情。
リリメルは上空からそれを見下ろし、高度を上げて追跡を始めた。
(こんな夜中に風衛兵に追われるなんて、何をしたんでしょうか?)
薄暗い路地を抜け、大通りに向かう男の背中を、リリメルは見失わないよう慎重に追う。
男はいくつもの路地を抜けて大通りへ飛び出そうとしていた。
その時――
男の正面、大通りの中央に、白い隊服の男。
まるでここに居れば、この男が来るとわかっていたように、悠然と立っていた。
(あれは?)
次の瞬間、火薬の破裂音が夜を裂いた。
たった一発。
乾いた音が建物の壁を反射していく。
弾丸は男を狙わず、路地の角をかすめ、金属の留め具を正確に撃ち抜いた。
「カーン!」と高い音が響き、わずかに遅れて頭上の巨大な看板が軋んだ。
支えを失った板がゆっくりと傾き、逃げてきた男の頭上へと目掛けて落ちていく。
まるで、男がみずから飛び込みんだように、看板の下敷きとなった。
鈍い衝撃音と共に、看板の端が石畳を叩き、粉塵が舞う。
リリメルは思わず小さな拍手を贈った。
(距離も、角度も、完璧でしたね。これを想定して撃ったならかなりの腕です)
風衛兵は、煙の向こうでわずかに肩をすくめ、エヴァンから立ちのぼる硝煙を払いのけた。
そのまま、看板の下で呻いている男の元へ歩み寄り、拘束する。
リリメルはそのすぐ後へ、ふわりと降り立った。
(息はありそうですね)
リリメルは下敷きにされた男の安否を確認すると風衛兵へと視線を送る。
その男の背中にリリメルは見覚えがあった。
「オリバーさん?」
振り向いた男が相手の顔を確認すると、片手を挨拶代わりに上げた。
「こんな時間にフラフラしてたら危ないぞ。」
「空中散歩ですから」
リリメルがにっこりと笑う。
「そりゃ優雅なことで……」
オリバーは小さくため息をつき、拘束した男の上に腰を下ろした。
「うぐっ……」
小さな呻き声が漏れたが、オリバーは気にする様子もない。
冷たい夜気がリリメルの頬を撫でていく。
遠くで、真夜中を告げる鐘の音が一度だけ響いた。
静寂の中、胸ポケットから煙草を一本抜き、無造作に唇へ咥える。
カチ、カチと何度か火打ち音が響き、ようやく青白い炎が灯った。
煙草の先が赤く光り、オリバーは深く煙を吸い込む。
肺の奥に溜め込み、静かに夜空へと吐き出した。
白い煙は月光に照らされて、ゆらゆらと溶けていく。
リリメルはその横顔をじっと見つめて、動く気配を見せない。
足元では、オリバーに踏みつけられた男が目を回している。
顔は埃と血で汚れ、諦めたように微動だにしない。
「そちらの方は?」
リリメルが手を軽くかざしながら尋ねると、オリバーはちらりと男の顔に目をやった。
煙をもう一度吐き出す。
「拘留所にいた囚人だ。厄介なことにな、夜灯の奴らが拘留されてた囚人の牢を全部開けやがった」
「全部……?」
リリメルの瞳が真ん丸く見開く。
耳に残るその言葉を何度も反芻しながら、胸の奥がざわついた。
「カーヴェインさんの牢も……?」
「あぁ、あいつは寝てて全然気づいてなかったがな」
「……あの人も、寝るんですね」
オリバーは苦笑いを一つだけ浮かべ、まだ半分しか吸っていない煙草の火を靴底で潰す。
顔を上げたその先で、複数の足音が赤煉瓦の道を震わせた。




