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037 格差


「セラちゃ〜ん!」

 

 太陽を背に大きく手を振る女性が一人。

 小麦色に焼けた肌に大きな麦わら帽子がよく似合う、朗らかな笑顔を浮かべた農婦だった。

 畦道の泥を跳ね上げながら子供に腕を引かれている彼女に、セラも大きく手を振り返す。

 

「こんにちは、マルタさん!」


「昨日はうちの子がお世話になって、良かったらコレ持って帰ってよ」


 差し出された麻袋の中には、土がついたままの瑞々しいジャガイモが詰まっていた。


「わぁ〜ありがとうございます。宿で出させてもらいますね。マルタさんのお野菜美味しいっていつも評判なんですよ」

「あらぁそれは嬉しいわねぇ」


 快活な笑い声が、畦道に並ぶ苗を揺らす。

 セラはまるで赤子でも抱くように、麻袋を両手で受け取った。

 マルタが首の布で顔を拭きながら、アドガードとリリメルへ視線を向ける。

 

「えっと、その方たちは?」

「お手伝いに来てくれたの」

「まあ、それは助かるわ〜!」


 朗らかに笑い、マルタは小屋の扉を開ける。

 取手のすぐ上にある鍵穴は錆びて塞がりかけていた。

 中に入ると、朝食とタバコの残り香が鼻へ流れ込む。

 薄暗く湿っぽいその部屋は、土間に簡単な台所と十畳ほどの板張りの小上がりがある質素な造りだった。

 隅には布団が積まれ、古びた木製の箪笥には入りきらない衣服が無造作に置かれている。

 

 女性は土間の食器棚から、手作りの帳面を取り出しセラへと渡した。

 

「ごめんなさいね。ちょっと畑に戻るわ。ごゆっくり」

 

 扉が開くと朝日と水田の風が一気に吹き込み、小屋中の空気をかき混ぜた。

 セラは帳面を開き、リリメルの前に差し出す。

 


「……ここが、収穫量と買い取り価格、そして支払い総額です」


 セラの指の先を追いながら、リリメルは首を傾げた。

 

「合いませんね」

 その一言に、セラが小さく肩を落とす。

 

「ええ、いつもこうなんです。だから、定期的に私が来て確認し、誤りを正しています」

 

 肩からかけた鞄からペンを取り出して、帳簿へと正しい数字を書き込んでいく。

 石の台所に触れた指先が冷やされながら、ペンの走る振動を感じていた。

 アドガードは小上がりに腰掛けて、大きく伸びをしている。

 

「この辺りでは、読み書きや計算ができない人が多いんです。だから、商人に金額をごまかされても気づけない」

 

「なるほど、だからハルヴィンさんは、勉強を教えていたんですね」

 

 セラの細い指先が、帳面の端を強く押さえ紙に跡が残る。

 彼女は次のページを捲りながら、静かに頷いた。

 

「学校に通えれば一番いい、でもこの農地から街の学校までは、大人の足でも一時間はかかります。

 子供たちは家の手伝いもあって、通う時間を作ることなんてできません。ずっと、この悪循環のままなんです」


 硬い石の天板にペンを置く音が甲高く響く。

 セラは帳簿を閉じ、リリメルへ向き直った。

 

「父は何度も風聖評議会(ふうせいひょうぎかい)に申請していました。この辺りに小さな学舎を建ててほしいと、でも二十五年間で五十回繰り返した申請は、一度も許可されませんでした。

 農民や職工が『賢くならない』方が、都合がいいのでしょうね」

 

 小さくセラの唇が震え、涙が一粒頬を伝う。

 輪郭を失った茶色い瞳が、されど強い意志を宿してリリメルを見据える。

 

「父は、本当に捕まらなくてはならないほどの、罪を犯したのでしょうか」


 帳簿の上、握られた掌が震えている。

 リリメルはそっとセラの背中を撫でる。

 その指先がチクリと痛んだ。

 風聖(ふうせい)の誇る学術都市はその輝きの裏に、気づかれることのない影を落としていた。


 

 セラが一通りの農家を回り終えたのは、重なった時計の針が太陽を指し示すころだ。

 セラと別れ、農地を北へと進む。

 

 拘留所へ向かう道中、リリメルは人が変わったように静かだった。

 時折足を止めて、農地沿いの建物を、首を動かしながら注意深く見ては、首を傾げたり、首肯したりして、また歩き出す。

 田畑を耕す農夫たちの声はどこまでも続き、その足元に深い影を落としている。

 

 日射が皮膚をジリジリと焼き、背中に汗が伝う。

 農道が終わり、白い大理石の道へと変わる。

 靴裏に着いた泥が、その白い道を汚して、乾いた泥が風に舞い上がる。

 その先に拘留所が見えてきた。

 

 木製の扉を潜ると空気がひんやりと変わった。

 汗が体から体温を奪っていく。

 細く息を吐き出すと、体の力が抜けていった。

 手慣れた様子で受付をするリリメルの後ろのベンチへと、アドガードは腰を下ろした。


 その時、階段から二人分の足音が響く。

 

 姿を見せたのは、二十代半ばほどの糸目で職人風の男と付添の看守だった。

 エントランスで二人は短く言葉を交わし、出口へ向かうため振り返る。

 その視線が、受付をするリリメルの方へ向けられた。

 通り過ぎる視線が流れるように動く。

 その不気味な気配に、アドガードの瞳孔が青く光る。

 

 背中越しに殺気を感じたのか、男はわずかに肩を震わせ、アドガードを振り返った。

 細い目にアドガードを映すと、帽子の鍔を軽く持ち上げて笑顔を作る。

 不穏な余韻を残して扉が男とアドガードを隔てた。


「アドガードさん、ハルヴィンさんの面会もう行けるみたいですよ」

 

 いつの間にかリリメルが目の前に立っていた。

 頷いて立ち上がり、リリメルと看守の後ろをついて歩く。

 昨日より少し薄暗く感じるのは、子供達がいないからかもしれない。


 鉄格子越しのハルヴィンは昨日と同じ椅子に座り、深く首を垂れている。

 膝の上で組まれた指先がわずかに震え、こちらにまったく気づかない。


「こんにちは」


 リリメルが静かに声をかけると、小さく肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

 ハルヴィンの表情には明らかに動揺が浮かんでいる。

 

「あっ、あぁこんにちは」


 声が少し震え、表情もどこかぎこちない。

 アドガードは一歩後ろから彼の様子を観察する。

 

「なにかありましたか?」

 

 リリメルの問いかけに、ハルヴィンの視線がわずかに泳ぐ。

 嘘をつき慣れない子供のような反応だ。

 

「いえ、特には。昨日の話の続きでしたね」

 

 ようやくハルヴィンは昨日と同じ教師の顔に戻る。


「教育の……格差について」


 ハルヴィンが唾を飲み込んだ。

 自分の言葉の違和感に気づいたように口元を掌で隠す。

 その指の先がまだ震えていた。

 

 アドガードの脳裏にあの糸目の男の細い眼光が蘇る。


 ハルヴィンは果たしてあの男と何の話をしていたのか、小さく揺れる指先が鉄格子の影と重なった。


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