036 農地
看守に促されてエントランスへ戻ると、向かいの廊下から一人の教徒が、顔を赤く染めて出てくるところだった。
すれ違いざま、男はリリメルたちを鋭く睨みつけ、袖を翻して足早に去っていく。
その上質な衣服の仕立てから見て、風聖の教徒か騎士だろう。
その背を見送りながら、リリメルは指差した。
「もしかして、キャンセルですか?」
リリメルの目が輝き、看守は呆れたように視線を逸らした。
「察しが良いですね」
小さく呟き、リリメルへ道を開けた。
リリメルは軽く会釈して、意気揚々とカーヴェインの牢へと歩き出す。
アドガードのわざとらしい溜息は聞こえなかったことにする。
昼と同じ場所、同じ姿勢、カーヴェインは壁に向かって立ち、服の皺すら動かない。
鉄格子のそばの棚には、食事が置かれたまま、皿の上のパンは乾ききり、果物の色も褪せている。
「面会は残り三十分で、十六時までになります」
看守が念を押すと、リリメルはいつものように明るく笑って頷いた。
そして大きく深呼吸をし、胸いっぱいに空気を吸い込む。
「カーヴェインさぁぁぁぁぁん!!!」
「少しお話ししませんかぁぁぁぁぁ!!!」
アドガードの肘が、喉が枯れそうなほど叫んでいるリリメルの背を小突いた。
振り返った先には、両耳を塞ぎ睨みつける青い瞳。
「やめろ」
「すみません」
リリメルが悪びれた様子もなく笑うと、アドガードの青い瞳がうんざりしたようにぐるりと回った。
「エントランスで待っていますか?」
アドガードが顎で看守を示す。
看守もまた両耳を押さえたまま、こちらを鋭く睨んでいた。
「わかりました。声のボリュームを半分にしますね!」
リリメルが勝手に宣言し、気合を入れ直す。
「カーヴェインさぁん!聞こえてますよねぇ?」
「リリメル・ベルです〜! 少しだけお話ししましょう!」
この騒音の中でも、牢の中の男は微動だにしない。
息をしているのかどうかも分からないほど、静かに佇むだけだった。
時間だけが過ぎ、十六時の鐘が鳴る。
その音にかぶさるように、リリメルが再び声を張った。
「また来ますからねっ」
返事はない。
アドガードが小さく肩をすくめる。
「圧が強すぎるんだよ」
「そうですか?」
看守は諦めたように首を振り「お二人とも、お引き取りを」と促した。
リリメルは最後まで笑顔を崩さず、鉄格子の奥に向かって深々とお辞儀をする。
「ではまた明日、その時はちゃんとお顔を見せてくださいね!」
返事のない静かな牢を後に、二人は長い廊下をエントランスへ向かう。
廊下に差し込む光は、夕刻の金色に変わりつつあった。
***
宿へ戻ってきた二人は、カウンターの奥に立つ人影を思わず凝視した。
「セラさん?」
思いがけない再会に、セラも同じように目を丸くする。
一瞬、互いに言葉を失ったが、セラが慌てて帳簿を取り出し、笑顔を作った。
「こちらにお泊まりだったんですね。ありがとうございます。お部屋は気に入っていただけましたか」
「はい!とても広くて綺麗で、過ごしやすいです」
リリメルの明るい返事に、セラは優しげに微笑む。
「それは良かったです」
視線を外さず指先の感覚だけで帳簿をめくり、鍵の位置を確認する。
その指先が、何かに気づいたように止まった。
次の瞬間、セラの頬がみるみる赤く染まっていく。
ちらりとリリメル、そしてアドガードへ視線が移り、それを何度も繰り返す。
「あの、えっと……お二人で、一部屋なんですか?」
セラの声には、隠しきれない好奇心が滲んでいた。
アドガードが低く呻き声を上げている。
顔を覗き込むと、目の端と眉間が痙攣したように動き、そっぽを向いてしまう。
その様子にリリメルは目を瞬かせてセラへと向き直る。
「おかしいですか?」
あまりに無邪気な声に、セラは再びアドガードへと視線を送る。
小さく唸る声が後ろから聞こえてきた。
セラは何かを察したようで、口元を押さえて笑いを必死に堪えながら鍵を差し出した。
「いえいえ、そんなことはありませんよ。お部屋の鍵です」
セラの肩がずっと小刻みに震えている。
風邪でも引いたのだろうか、とリリメルが心配そうに覗き込むと、彼女の目尻には涙さえ浮かんでいた。
首を傾げるリリメルの横から、太く逞しい腕が勢いよく伸びた。
カウンターの鍵をひったくるように奪い取ったのは、アドガードだ。
「さっさと行くぞ」
フンッと鼻を鳴らし、彼は一度も振り返らずに階段へと向かう。
リリメルはその背中を追いかけながら小さく呟いた。
「何を怒っているんでしょう?」
「きっと怒ってるわけじゃないと思いますよ」
セラがなんとか笑いを噛み殺して優しく微笑みかけた。
反対にアドガードが乱暴に階段を上る音が響く。
その音を聞きながら、リリメルは何か言いたげにセラを見つめる。
ロビーには他の客はおらず、カウンターに置かれたリリメルの手が握られた。
「セラさんはハルヴィンさんが子供たちに勉強を教えていたことを知ってたんですか?」
リリメルは少し聞きにくそうに、顎を引いて肩をすくめた。
セラは目を見開いた後、わずかに伏せる。
知っていれば共犯になったりするのだろうか、だとすれば今の質問は適切ではなかったとリリメルは思い直し笑ってみせた。
「すみません。忘れてください!晩御飯楽しみにしてます」
そう言って踵を返したリリメルの横顔に、セラが声をかける。
「リリメルさん」
「はい」
「もしお忙しくなければ、明日の朝ご一緒しませんか? 農地まで行く予定があるんです」
「ぜひ、行きます!」
リリメルは迷うことなく答えた。
その姿にセラは少し複雑な表情を浮かべ「よろしくお願いします」と笑った。
***
翌朝
宿屋から東へと四半刻ほど歩くと、霞の向こうの朝日が金色の光を大地いっぱいに広げた。
そこには、地平線まで続くような広大な農地がどこまでも続き、湿った土の匂いと、朝露に光る苗の緑が畦道で揺れていた。
畑では、まだ幼い子供たちが大人と一緒に鍬を振るう。
風に混じって、笑い声と小さな掛け声が届いた。
「セラ!」
畑の方から甲高い声が上がると、働いていた農夫たちがまばらに顔を上げる。
セラは手を振り返し「おはよう!」と明るく応えた。
その少女は長い髪を揺らしながら、駆け寄ってきてセラに飛びついた。
泥だらけの靴がセラの服を汚しても、気にする様子もなく子供を抱きしめている。
「朝からお手伝い、大変だね」
「ぜーんぜん!セラはママに会いに来たの?」
「そうよ。いつもの確認の日なの」
「わかったー!」
子供は元気に手を振って畑の奥へ走っていく。
その背中を見送ると、田畑の畦道を進み、小さな木造の小屋の前で足を止めた。
「昨日の子供たちは、みんなこの辺りの子なんですか?」
リリメルが尋ねると、セラは小さく頷いた。
「ええ、何人かは農地の子たちです。ほかにも、炭を焼いたり紙を漉いたり、家業を手伝っている子供たちです」
「そんなに小さいうちから偉いですね」
リリメルが素直に感心すると、セラの視線が地面へと落ちる。
下を向いたまま「……そうですね」と小さく呟いた。
田畑を吹き抜けた冷たい風が、セラのクリーム色の髪を不安げに揺らした。




