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035 優しい囚人


 カーヴェインとの面会は、またも微動だにしない背中に呼びかけ続けるという虚しいもので幕を閉じた。

 大きなため息を床に吐き出しながら、タイルの目地を避けるように歩く。

 特に意味はないが、他のことを考えれば少しは気が紛れた。


 待合室まで戻ると、複数の子供たちが楽しげに話す声が歌のように響く。

 視線を上げると、なんとその中心にはアドガードがいた。

 胸の真ん中が温かくなり、自然と笑顔があふれ出す。

 服を変えたことがここまでの効果を出すとは、セレナへもっと感謝を伝えておけば良かった。


 そこで子供たちが会いに来る『囚人』に、リリメルは興味を持った。

 気がつけば言葉に変わる。


「私もご一緒してもいいですか?邪魔はしませんから」

 

 看守も女性も少し困惑した顔を浮かべたが、そんなことを気にしたりはしないとリリメルは笑顔を強化する。

 強引にアドガードの腕を引き、『先生』の面会に同行した。


 『先生』は初老の男で、知的さと穏やかさを併せ持つ、そう呼ばれるに相応しい人物だった。

 リリメルの胸に新たな興味が湧き起こる。


 どんな罪で捕まったのでしょうか。


 疑問を抱くほど、目の前の男性は清廉潔白に見えていた。

 

 やがて子供たちとの会話を終えると、男は背筋を伸ばす。

 

「セラさん。お変わりはありませんか」


 子供たちと一緒にいた女性へと、向き直る。

 話す時に真っ直ぐに相手の方を向く、そんな丁寧さに好感が持てた。

 

「私は元気よ。父さんは少し痩せたみたい」

 

 セラと呼ばれた女性は少し視線を伏せながら答えた。

 

「私も変わりありませんよ。ところで、そちらの方々は?」

 

 問われてセラは困ったようにリリメルへ視線を向ける。

 一歩進み出て、姿勢を正す。

 

「私は華教徒(かきょうと)のリリメル・ベルと申します。そしてこちらは──」

 

 喉の奥が渇いて、それ以上言葉が出てこない。

 彼らはこの名をどう受け止めるのだろうか。

 今まで自然に接してくれていた笑顔は、この一言で壊れてしまうかもしれない。

 

――アドガードさんは人間にしか見えない。服と名前を変えれば混乱を避けられます――

 

 カナの助言が脳裏をかすめ、心臓の音が耳元までせり上がってくる。

 名を偽れば、彼が恐ろしい人間であるとリリメル自身が、断定してしまうような気がしたからだ。

 リリメルの背を冷たい汗が伝う。

 こちらを見つめる、純粋な子供たちの瞳が怖かった。

 

 その時、アドガードが前へ踏み出し、大きな背中でリリメルと長い廊下とを立ち塞いだ。

 リリメルは目を瞬き、下唇を噛みしめる。

 

 一度強く目を瞑り、まっすぐにハルヴィンに向き直った。

 

「私はリリメル・ベル、こちらは、随人(ずいにん)のアドガード・ウィキです」

 

 その名が口にされた瞬間、誰もが息を呑み、空気が凍りついた。

 子供たちですら、名を知らない者はいない。

 小さなざわめきが広がり、ほとんどの者が無意識に一歩後ずさる。

 恐怖が重心を後ろへと引き、セラの顔にも怯えの色が浮かんだ。


 小さな子供も知っている、絵本まであるという月聖(げっせい)二百人殺しの恐ろしい獣人の名。

 

 リリメルは必死に言葉を探したが、喉がつまって声が出ない。

 

「皆さん、いけません」

 

 穏やかながらもよく通る声が空気を断ち切った。

 ハルヴィンは子供たちを諭し、堂々と掌をこちらへと差し出したのだ。

 

「私はハルヴィンと申します。カルディナで小さな宿屋を営んでおりました」

 

 ハルヴィンの中指には、硬いタコがあった。

 文字をよく書く勤勉な人の手だ。

 

 それからしばらく、子供たちとハルヴィンの交流を見守っていると、まもなくセラが声をかける。

 

「そろそろ帰りますよ」

 

 子供たちは名残惜しそうにもしっかりと頷き、元気よく階段を下っていった。

 

 二人はその場に残り、去っていく背中を見送る。

 廊下には、じっとりと冷たい静けさが戻ってきた。

 

「……私は、とても不思議に思うのですが」

 

 リリメルがハルヴィンに向き直り、慎重な口調で切り出した。

 

「ハルヴィンさんは、どんな罪で拘留されたのですか?」

 

「子供たちに勉強を教えた罪です」

 

 ハルヴィンは変わらず穏やかな声を発していたが、落ち窪んだ瞳にかかる影が僅かに深まった。

 二人は思わず顔を見合わせる。

 

「……えぇっと、それって罪なんですか?」

 

「ええ風聖(ふうせい)では、資格を持たない者が勉強を教えることを固く禁じています。これは大罪に当たります」

 

 首を傾げるリリメルに、ハルヴィンは少し言葉を選びながら続けた。

 

「“知識”は最も神聖なものであり、同時に最も厳しく管理されるものなのです。正しい教育を受けていない者が誤った知識を広めれば、社会を混乱に陥れる、そのためにできた戒律です」

 

「つまり間違ったことを教えてしまったのですか?」

 

 リリメルが恐る恐る尋ねると、ハルヴィンは寂しげに笑みを浮かべ首を横に振った。

 

「私は学術院まで行きましたし、子供たちに教えていたのは読み書きと簡単な計算だけです。誤りはありません」

 

 ますます理解できず、リリメルは眉を寄せる。

 

「では、なにが悪かったんでしょう?」

 

 ハルヴィンはふっと笑みを浮かべた。

 

「一つあるとすれば……子供を集めすぎたことでしょうか」

 

 リリメルはひらめいたように人差し指を立てた。

 

「さては、高い授業料をふんだくっていたんですね!」


 突拍子もない断定にハルヴィンは目を丸くした。

 アドガードがリリメルの横腹を小突く。


「もう少し言い方を考えろ」


 アドガードの低く唸るような声と深い眉間の皺、その上高身長から見下すような視線。

 リリメルは頭を掻きながら誤魔化し笑いを浮かべた。

 ハルヴィンは、意外にも小さく笑い声を漏らす。

 

「いいえ、無償でしたよ。生活が苦しい家ばかりでしたから、本業の合間に時間を見つけては、教えていました」

 

 懐かしむように細めた目に、わずかに影が差す。

 

「やっぱりわかりません。結局、いったい何の罪なんですか?」

 

 リリメルがもう一度問いかけると、ハルヴィンは困ったように笑い、しかしはっきりと応えた。

 

「子供たちに勉強を教えた罪です」


 リリメルは再び首を傾げるが、同じ質問を繰り返しても仕方ないと切り替えた。

 

「罪になるって知ってたんですよね? では何故わざわざ勉強を教えていたんですか」

 

 ハルヴィンは黙り込み、一点を見つめ口をきつく閉じる。

 その姿が、カーヴェインの孤独な背中と重なった。

 吸い込んだ息が出口を失い、肺が吐き方を教えるように、言葉が口をついた。


風聖(ふうせい)では、十歳まで誰でも無料で学校に通えると聞いたことがあります」

 

「よくご存知ですね。ただそれは表向きに過ぎません。実際には……」


 ようやく開いたハルヴィンの言葉を、邪魔する硬い靴音が無機質な廊下に響く。

 階段を駆け上がって来た看守が慌ててリリメルへ詰め寄った。

 

「面会予約もされていないのに、勝手に囚人と話されては困ります!」

 

「すみません」

 

 悪びれる様子のないリリメルの背中を、看守が軽く押して促した。

 牢を後にしながら、リリメルは振り返って叫ぶ。

 

「明日また来ます!続きを、聞かせてください!」

「ええ、お待ちしています」

 

 穏やかに響いたハルヴィンの声とは裏腹に、その目が一瞬鋭く光ったように見えた。

 

 

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