033 待機
翌朝
「さぁ、行きましょう。今日こそはカーヴェインさんとお話ししなくては!」
朝日を背に、リリメルは勢いよく宿の扉を押し開ける。
その背中を追いながら、アドガードは欠伸をひとつ。
昨夜は寝つきが悪く、浅い眠りのまま朝を迎えてしまった。
まだハッキリしない意識のまま、仕方なくリリメルの後ろをのんびりと歩き出す。
街はすでに目覚め、石畳の通りを職場や学校に急ぐ人々が行き交っていた。
カフェの軒先からは、焙煎された豆の香ばしい香りが漂う。
アドガードはこの嗅ぎ慣れない匂いが、どうにも苦手だった。
他にもコーヒーを出す店はいくらでもあるというのに、なぜかその店にだけ、朝から奇妙な列ができている。
それどころか、特定のロゴが入ったカップを片手に歩く人々の多さに、アドガードは首を傾げた。
(一体何を買ってるんだろうな)
気が付けば道は白く変わり、拘留所の質素な建物が見えてきた。
時刻は午前八時。
ちょうど正面玄関を開けに、昨日と同じ受付の女性事務員が姿を現した。
「また来たのか」と言いたげに眉をひそめる彼女をよそに、リリメルは大股で中へ踏み込み、待合室に真っ直ぐ進む。
女性がカウンターへ戻ると同時に、リリメルはさっそく声をかけた。
「カーヴェインさんの面会にキャンセルがあれば教えてください。私はここで待たせてもらいます!」
きっぱりとした口調に、受付嬢の顔があからさまに歪む。
「必ず予約が空くとは限りませんよ?」
「もちろん、わかってます!」
リリメルの声には、有無を言わさない力が宿っていた。
事務員は根負けしたように、小さな紙片を小窓から差し出した。
「――はい。キャンセル待ち票、一番です」
「ありがとうございます!」
リリメルは紙を宝物のように握りしめ、ロビーの隅に置かれたソファへ腰を下ろす。
その時、扉が再び開き、男が一人入ってくる。
立ち襟と留金の代わりに、複雑な紐細工のボタンがある独特な服装をしている。
袖からはみ出した腕は膨れ上がり、繊細な刺繍は男の厚みに耐えるように横に広がり形を変えていた。
見るからに鳥聖の教徒だ。
男は一切迷うことなく受付へと歩み寄り、看守に案内されると、そのまま奥へと姿を消した。
(カーヴェインのような科学者を鳥教徒も欲しがったりするんだな)
妙に感心しながら、屈強な背中を見送ると、隣から紙のしなる音が小さく響く。
リリメルが唇を引き結び、キャンセル票を握り直していた。
力を込めて白くなったリリメルの指先に目が留まった。
誰かがカーヴェインを連れ出してしまえば、この時間は空虚に終わる。
そんな風に感じているのかもしれない。
天井のシミを数えながら時間が経つのを待つ。
拘留所の冷たく、音のない時間はそんなに悪くなかった。
不意に紙の擦れる音がする。
リリメルがいつの間にか小さな本を取り出し読み耽っていた。
翡翠色の瞳が文字を追い、真剣な表情が浮かぶ。
こんな顔もできるんだなと、妙に感心した。
アドガードの視線は開かれたページへと進む。
その本は図解と数字、それに説明文が載っている。
内容はよくわからなかったが、暇つぶしに覗いていると、すぐにリリメルが気付き顔を上げた。
「アドガードさんもなにか読みますか?」
「いや、俺は字は読めない」
「言ってましたね……」
リリメルは思い出したように呟くと、きまり悪そうに視線を天井へ逸らし、また本へと戻した。
アドガードは昨夜の寝不足と、この空白の時間に、瞼が重くなる。
空気中に漂う埃が光の粒のように煌めくさまを眺めながら、リリメルに問いかけた。
「寝ててもいいか?」
リリメルは本から顔を上げ、アドガードの顔を覗き込んでから首を傾げる。
「いいですよ、膝を貸しましょうか?」
なぜか得意げに微笑み、自分の膝を軽く叩いて促した。
「いらない」
アドガードは短く答え、壁に背を預けてゆっくり目を閉じた。
薄暗い待合室に流れる、少し冷たい空気に身を沈めていく。
まどろみの中、遠くから高い声が近づいてくる。
アドガードの瞼に光が差し、意識がゆっくりと持ち上がっていく。
「おっきいねぇ!」
「ほんとだぁ、ねてるみたい」
「なんで?」
「わかんない!」
声の主はすぐ目の前にいた。
座るアドガードの膝に掌を置いて、数人の子供が覗き込む。
大きな瞳をきらきらさせながら、まるで珍しい動物でも見つけたかのように取り囲んでいる。
アドガードが大きく伸びをすると、子供たちは「ぶつかる!」と笑いながら小さく悲鳴を上げ、四方に逃げ回った。
それでもすぐに戻ってきて、今度は一斉に「おはよう!」と声をかけてくる。
その明るさに、アドガードは思わず目を瞬いた。
カナの入れ知恵が効いたのか、囚人服を着ていない彼はただの通行人にしか見えないらしい。
「……おはよう。お前たちはこんな所に何しに来たんだ?」
努めて穏やかな声を作って問いかけると、子供たちは嬉しそうに顔を見合わせ、口々に答えた。
「先生に会いにきたの!」
「先生?」
アドガードが眉を寄せる。
「ここにいるのか?」
子供たちは互いに視線を交わし、やがて三つ編みのおさげを揺らした少女が一歩前へ出た。
どうやら代表に選ばれたらしい。
「そうだよ。ずっと、わたしたちに勉強を教えてくれてた先生なの。でもね、捕まっちゃったの」
声を震わせながら告げると、大きな瞳に涙がたまり、やがて雫が頬を伝った。
それが合図のように、他の子供たちも一斉にしゃくりあげる。
「先生、いなくなっちゃうのやだぁ!」
泣き声が重なり、待合室の空気は一瞬にして湿り気を帯びる。
「お、おい……泣くなよ!」
アドガードはどう対応すべきか分からず、助けを求めて視線をさまよわせるが、隣にいたはずのリリメルの姿がない。
キャンセルでも出たのかもしれないが、それなら自分にも声を掛けてから行けと文句を付けたくなった。
小さな子供たちの泣き声がアドガードの焦りを色濃くする。
両手が宙を彷徨い、助けを求めるように受付へ視線を送るものの、窓口の女性は、無情にも「我関せず」と窓を素早く閉めた。
「……はぁ」
小さなため息が、喉の奥から漏れる。
その時、事務所の扉が勢いよく開き、女性が一人飛び出してくる。
慌てて子供たちに駆け寄った。
「どうしたの?」
彼女を見つけるや否や、子供たちは一斉にその足元へ群がり「セラ――!」と抱きついた。
セラは驚いた様子もなく、しゃがみ込んで子供たちと同じ目線になると、まとめて抱きしめて頭を撫でる。
『先生』の知り合いだろうか、どちらにせよアドガードにとって助け舟であることに間違いはない。
そっと胸を撫で下ろした。
「こんなところで泣いてたら、先生が心配になっちゃうよ。昨日約束したよね?笑顔でお話ししようって」
その声は柔らかく、子供たちの心にすっと染み込む響きを持っていた。
しゃくりあげていた小さな顔が、少しずつ落ち着いていく。
「先生に元気な笑顔、見せられる人!」
セラが自ら手を挙げて見せると、子供たちは競うように「はーい!」と声を張り上げる。
濡れていた瞳が一気に輝き出し、泣き声はいつのまにか笑い声に変わっていく。
この無骨な待合室が、日向の学校のように見える。
少し暖かくなった室内に再び子供たちの笑い声が響いた。




