032 宿
暗くなり始めた繁華街の裏路地にある、小さな店の前に辿り着いた。
表通りの整然とした赤煉瓦の街並みとは違い、木の板を打ち付けた荒々しい建物には長年の油が染み込み、黒ずみができている。
まさに、カルディナに愛された名店といった風貌だ。
店内は木のテーブルと油染みた床が印象的で、活気に溢れる大衆酒場だった。
リリメルにはあまり馴染みのない、鼻をつく香辛料と焼き油の匂いに少しむせる。
歩くたびに靴底がキュッキュッと高い音を立てる狭い通路を抜け、ようやく人の波から離れた壁際の席に着く。
物珍しさにリリメルは辺りを見回した。
「教徒様はこんな店、来ないだろ?」
「はい、初めて来ました」
からかうつもりの一言に、リリメルがあまりに真っ直ぐ答えるもので、オリバーは思わず吹き出した。
そんなことは気にも留めず、壁にかかった黒板のメニューを一生懸命に目で追っている。
「何が美味しいんでしょうか?」
「任せとけ」
不敵に笑ったオリバーは、慣れた手つきで店員を呼び、手早くいくつか注文した。
「酒は呑まないのか?」
「私は呑みません」
リリメルの返事を聞いてから、アドガードも首を振った。
「残念だねぇ、じゃあオレはひとりで楽しませてもらうか」
オリバーは机に置かれた水を一気に飲み込む。
喉を潤したあと、吟味するようにコップを指先で転がした。
やがてゆっくりと口を開く。
「随分と熱心に面会の予約をしていたな」
不意の言葉に、リリメルの眉尻が下がる。
なんとも頼りない表情で、少し恥ずかしそうに肩をすくめた。
「十日後しか取れませんでしたけど……」
リリメルが小さくため息をこぼす。
オリバーは気の毒そうに眉を寄せた。
「十日後か、そりゃキツイな。宿は決まってるのか?」
「いい宿、ご存知ですか?」
「まだか、なら安くてメシが美味い宿を紹介してやるよ」
手慣れた調子で手帳の一ページを破り取る。
ペンを走らせ、簡単な地図を書きつけると、その紙をリリメルへと突き出した。
地図を見る限りこの店から遠くない。
「ありがとうございます」
リリメルが笑顔で返すと、香ばしい匂いが鼻をつく。
ちょうど料理と酒がテーブルに運ばれてきた。
大皿に盛られた豪快な料理たちは、どれもリリメルが食べたことのないものばかりだ。
もう腹の虫は限界だと鳴いている。
「街にいる時しかこういう食事はできないので、貴重です。ご馳走になります!」
今すぐかぶりつきたい衝動を抑えて、手を組み、短く祈りを捧げていると、横から喉の鳴る音が聞こえた。
アドガードは律儀にリリメルが手を付けるのを待っているらしい。
普段より少し早めに顔を上げると「いただきます!」と満面の笑顔を浮かべ、油で揚げた鶏肉を一つ口の中へと運んだ。
香草と鶏肉の油が口の中で混じり合い複雑な旨味が味覚を刺激して、頬がとろけそうになる。
リリメルもアドガードも、久しぶりの暖かな食事を口いっぱいに頬張った。
その様子を眺めながら、オリバーはグラスを揺らし、酒に口をつける。
喉を鳴らしつつ、聞こえないように呼吸をひとつ整えた。
「で、結局十日間はこの街にいるのか?」
頬を膨らませたリリメルが頷く。
なんとか飲み込もうと細かく口を動かす姿が、小動物のようだ。
オリバーはコップを指先で回しながら続ける。
「そうか、ならいいことを教えてやろう」
わずかに身を乗り出して囁いた。
「カーヴェインは誰に対してもあんな調子だ。早々に諦めて帰る奴もいる。時間があるなら拘留所に張り込んでキャンセルを待つといい。会える確率は、ぐっと上がるはずだ」
口元に掌を当てながら、リリメルの目が輝いた。
「そうなんですか!」
「オレはいつもその方法で面会してる」
オリバーは右の口角だけをあげて、姿勢を正した。
リリメルが満面の笑みで「ありがとうございます」というや否や、また料理を頬張った。
オリバーも少し料理に手を付けつつ、アドガードへと視線を向ける。
下から上へ流れて、また手元のグラスへと落ちた。
「どうして、そんなにカーヴェインを連れていきたいんだ」
その質問にリリメルは口を動かしながら首を傾げる。
「普通は相手にされないと面倒になって、諦めるもんだろ。あんなに必死に予約を取ろうなんて、よほどの理由があるのか?」
柔らかく笑いながら投げかけられた言葉に、リリメルは思わず手を止める。
フォークを置いて、目の前のコップを取り、水を一口飲みながら、グラス越しにオリバーの胸に光る星章を見た。
リリメルはまだオリバーの目的を知らない。
「そうです。カーヴェインさんにやっていただきたいことがあるんです」
「ふーん」と気のない返事。
だがその声音は、わずかに違和感を残す。
「なにか作ってほしいのか?」
「はい!ところで、オリバーさんはどうして、カーヴェインさんに会いに来ていたんです?」
オリバーは間を置かず、腰のエヴァンを軽く叩いて爽やかな笑みを浮かべる。
「オレはエヴァン士団の師団長だからな。ちょっと使い方を聞きたくてな」
用意されていた答えにオリバーとリリメルはハハハッと軽快な笑い声をあげた。
だが、どちらの目も笑ってはいない。
アドガードだけが、その様子を見ながら少し身体をのけぞらせていた。
***
「結局、なにも聞き出せませんでしたねぇ」
部屋に入るなり、リリメルは真っ白なシーツの上に背中から飛び込んだ。
軽い羽毛布団がふわりと浮き上がり、ベッドが小さく悲鳴をあげる。
オリバーの紹介してくれた宿は、繁華街の喧噪から少し奥まった裏通りにあり、表は質素だが、中は清潔で広い。
値段の割に部屋も広く、窓からは街灯の明かりが柔らかく差し込んでいる。
旅の疲れが、和らぐような場所だった。
リリメルはベッドの上で、まるで戦利品を確かめるかのように自分の腹を撫で、満足げに笑う。
「食べすぎましたねぇ」
アドガードは眉をひそめて動かない。
腕を組んで立ったまま、呆れた顔で彼女を見下ろしていた。
なんで、一部屋しか取らなかったんだ?
答えを聞くまでもなく、相手が相手なので余計に腹が立つ。
「アドガードさん、休まないんですか?」
首だけ持ち上げてこちらを見たリリメルが、無邪気に問いかけた。
アドガードは重く息を吐き捨てる。
「俺は廊下でいい」
「ダメですよ、他の宿泊客が怖がります」
「じゃあ、外で寝る」
「風衛兵に捕まってしまいますよ」
悪びれもなく首を傾げて返すその顔に、アドガードは眉間に皺を寄せ口を少し尖らせた。
トリヴァラでほとんど宝珠を使い切ってたな……
文句を言いたくても、自分には出せる金も無いので諦めて目を閉じる。
リリメルはもう使えなくなった透明の宝珠を全て集めてまだ身に纏っていた。
宝珠を売って路銀にしていると言っていたのに、これからどうするつもりなのか……
金銭的にかなり苦しいのかもしれない。
アドガードは結局押し負けるように隣のベッドへ腰を下ろした。
考え込んでいるうちに、隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
あっけないほど早い眠りに、「どうやらコイツに不安なんて言葉はないらしい」と頭の中だけで毒づいた。
とはいえ、トリヴァラの事件後ろくな休みもなくカルディナまで歩いてきた。
気付けば内出血の跡はすっかりと消えていたが、疲れているのは間違いないだろう。
健やかな寝顔を見れば、溜息が漏れる。
仕方なく横になるが、視線は自然と隣へ向かってしまう。
金の髪に翡翠色の瞳、それに透き通る肌、黙っていれば――いや、祈りでもしていれば、きっと「清廉な美少女」に見えただろう。
だが、短い付き合いでさえ、そのガサツさと奔放さが美点を吹き飛ばしていることを、アドガードは嫌というほど知っていた。
天井のシミを見つめながら、ため息を漏らす。
それがリリメルの寝息と重なった。




