031 オリバー・エルドリッチ
「オレは庶民出身だから、ああいうのは逆に難しいけどな」
そう言って肩を竦める彼の胸には、九つの星が輝いていた。
それは師団長の証。
リリメルは笑う横顔にほんの少しの警戒を抱く。
「庶民出身で師団長なんて、すごく優秀なのですね」
普段よりほんの少し落ち着いた声が響く。
その機微をオリバーは見逃さず、困ったように笑ってみせた。
まるで、「そんなに警戒しないでくれよ」と言っているようだった。
「そんな大層なもんじゃねぇんだ。たまたまコイツを扱うのに向いてたってだけさ」
オリバーは軽く腰のエヴァンを叩く。
そのまま親指の腹で撫でる姿は、薄いガラスの鳥に触れるように繊細だった。
一瞬射した影が、すぐに気さくな調子へと変わり話を切り替える。
「嬢ちゃんの思う風衛兵っつーと……あれだな、セラフィム・ヴァルクには会ったか? ちょうどアドガードの釈放の日に中央都市に派遣されていたはずだが」
アドガードが体を強張らせ、身震いをした。
リリメルはその様子に首を傾げながら、オリバーの緑の目を覗き込む。
聖風衛士団の師団長と言えば、構成員十万人のトップになる。
こんな短期間でそんなに出会うことがあるでしょうか、リリメルの胸に蟠りが残る。
「はははっ! アドガードの方は会ったんだな。プライドの化身みたいだったろ?」
アドガードは首筋を撫でながら顔をしかめた。
「ゴミでも見るような目だった」
オリバーはアドガードに合わせるように苦笑いを浮かべ「だろうな」と付け足した。
「オレだって会議で顔を合わせるたび舌打ちされてる。『庶民には似つかわしくない場』だの『エヴァンは美しくない』だの、小言付きだ。知るかってんだ。オレだって好きで師団長やってるわけじゃねぇっての」
オリバーがリリメルの困惑を見透かしたように、からりと笑って見せる。
リリメルもなんとなく、それに合わせてみた。
そんな和やかさを装う雰囲気を破るような鐘の音が、三時を告げている。
「時間になったみたいです。またお会いしたらお話聞かせてください」
「おっと、引き留めちまったな。あぁ是非話そうぜ」
リリメルとアドガードが急ぎ足で拘留所の中へ消えていく。
オリバーは小さく手を振りながらその背を見送った。
笑みを残したその顔に、わずかに影が射す。
「あの……カーヴェインさーん!聞こえてますかぁ?」
リリメル・ベルは鉄格子に額がつくほど身を寄せ、両手で掴む。
必死に声を張り上げても、虚ろな牢の空気に吸い込まれるばかりだ。
オリバーと別れ、面会のための手続きを済ませて案内されたのは、奥まった一角にある薄暗い牢。
そこにいたのはゼフィルド・カーヴェイン――名の知れた天才にして、狂気の科学者だ。
彼は鉄格子に背を向け、壁の前に立ち微動だにしない。
右手の白いチョークはすでに粉で削れて短く、指先は白く染まっていた。
コンクリートの壁一面には、意味のわからない数式や、幾何学的な図形、符号めいた文字列が散らばっている。
「カーヴェインさぁぁぁん!!」
掠れた喉で声を絞り出しても、カーヴェインが振り返ることはなかった。
まるで目の前に見えない壁でもあるようだ。
ただ時おり壁に新しい線を走らせるカーヴェインの姿は、遊びに夢中な子どものようでもあり、孤独な狂人のようでもあった。
そうやって、人形なのではとの疑念も薄れていく。
人形の方がまだ話は早いかもしれない。
無情にも、時計の鐘が響く。――午後四時。
「面会時間の終了です」
背後から看守が小さく告げた。
「まっ、待ってください! まだ一言も話していないんです!」
リリメルは振り返りざま、縋るように声を張り上げたが、返ってきたのは、事務的な言葉だけ。
「ルールですので」
無情な響きに肩を落としながらも、彼女は諦めきれず、すぐエントランス横の受付に駆け込んだ。
「次の予約を! 今すぐ、お願いします!」
締めかけていた受付の鍵が、リリメルの勢いに押されて開かれる。
受付の女性は迷惑そうに眉を顰めた。
「ゼフィルド・カーヴェインの空き枠は、十日以降となります。ご都合はいかがでしょうか」
あくまでも事務的に、完全に熱を排除した話し方だ。
リリメルはカウンターに突っ伏すように項垂れる。
「そ、そんなに、待てませ……もう少し早く予約は取れませんか?」
「予約はすべて埋まっています」
それでもリリメルは身を乗り出し、ぐっと受付に近づいた。
「お願いします!なんとか、どこかで少しだけでも!」
「ルールですから」
「お昼休みの合間とか、ほんの十分だけでも! 壁越しでもいいんです!」
必死に食い下がるリリメル。
その横でアドガードは腕を組み、半ば呆れ顔で成り行きを見守っていた。
どれほど粘っても、返ってくるのは冷たい一句。
「ルールですから」
その無機質な言葉が、リリメルの胸にずしりと響く。
十五分ほど経つと、ついに事務員は強制的に受付窓を閉じようとした。
リリメルは最後まで食い下がったが、結局はしぶしぶ十日後の一番早い枠を予約し、肩を落としたまま重い扉を押し開ける。
石畳の上に出た瞬間、ひんやりとした夕風が頬を撫でる。
深いため息が風に攫われる。
項垂れたまま門前の階段を降りかけた、その時――
「話はできたか。お嬢さん」
勢いよく顔を上げると、庁舎の脇にある花壇の縁に、オリバーが腰掛けて片手を小さく上げていた。
タバコを指に挟み、紫煙を揺らしながら、不敵に口元を歪めている。
「その様子じゃあ、無理だったみたいだな」
苦笑混じりの言葉に、リリメルもつられて肩をすくめ、力なく笑った。
ふと、彼女は首を傾げる。
「オリバーさんはどうしてカーヴェインさんに会いに来てたんですか。確か聖風衛士団は、宗戦には不可侵協定を結んでいたはずじゃ」
「よく知ってるな」
オリバーは目を細め、一瞬拘留所の二階に視線を走らせる。
建物の影が夕陽を裂き、リリメルたちの足元まで迫っている。
不意に二人の間を風が駆け抜け、苦味のある香りをリリメルに届けた。
その香りに、今朝の握手を思い出す。
「ここじゃあなんだ、晩飯でもどうだ?ご馳走するよ」
オリバーの表情は、逆光に埋もれて見えなかった。




