030 学術都市 カルディナ
トリヴァラからローデン運河沿いを北へ上り約半日、二人はカルディナへと到着した。
時間は正午を過ぎ、約束の時間まで残り二時間ほどだ。
カルディナは、東西を二つの運河、北を峻厳な山脈に囲まれた天然の要塞だ。
街への入口は、そこを縦断する目抜き通りの最南端にのみ開かれている。
リリメルは立ち止まり、白亜の石で築かれた巨大な楼門を見上げた。
アーチの上には、風聖のシンボルである『ヴェリス・ヴァント=シランディア像』が鎮座している。
知の女神の名を冠したその『シャンディア門』には、学術都市にふさわしい、厳格な威容が漂っていた。
シャンディア門に扉はなく、門番も見つからない。
誰もが自由に街へ足を踏み入れることができる。
リリメルは門を潜りながら、首がもげそうなほど見上げて、感嘆の溜息をもらす。
「こんな巨大なもの、いったいどうやって造るのでしょうね」
シャンディア門を抜けると、真っ直ぐに伸びる目抜き通りが堂々たる存在感を放っている。
両脇は揃いの赤煉瓦で作られた趣のある建物で、書店や学術用品を扱う店に混じり、喫茶店や飲食店なども立ち並んだ。
均等に配置された石畳の上、昼食や買い物にと忙しなく行きかう人々は、みな知的で上品な雰囲気を醸し出している。
すれ違う人々は、背の高いアドガードに視線を向ける者はいても、トリヴァラのように明確な敵意や怯えを孕んだ瞳を向けられることはなかった。
服装と人間化のおかげで気付かれないのか、それとも元々この都市の人々が他人に関心を払わないのか、判然としなかったが、過ごしやすい街であることは間違いなかった。
通りの突き当たりには、尖塔を備えた研究施設が小さく見える。
このあまりにも正確に真っ直ぐ伸びる目抜き通りこそが「知識と発展を司る風聖の街」であることを誇らしげに物語っていた。
「カナさんも、カルディナの学校に通っていたと仰ってましたよね」
「一緒に来なくてもよかったのか?」
アドガードは、さほど街並みには興味がないようで、忙しなく辺りを見回しているリリメルの後ろをめんどくさそうに着いてくる。
リリメルは軽く肩をすくめるが、視線は相変わらず忙しなく動く。
「私はカーヴェインさんとの面会日時が決まっていましたし……あのトリヴァラの状況では、同行するのは難しいです」
アドガードは少し意外そうな顔を浮かべ、それ以上何かを聞くことはなかった。
「それにしてもどの建物も背が高いですね。三本指に入る古都とは思えません」
まるで血管を張り巡らすように、目抜き通りから細い路地があちこちに伸び、その先にも多くの人が行きかっている。
学術院は脳で、シャンディア門は心臓でしょうか。リリメルは密かに考える。
まるで知識を吸収し、ため込み続けたこの街は『風聖』の思想を具現化した巨大な女神のように感じられた。
ちょうど中心まで歩くと、道の色が赤から白へと変わり、通行人は極端に少なくなった。
そこからは、研究施設や学校が立ち並び、建物はどれも塀に囲まれ、どの敷地も格段に広い。
細い路地は姿を消し、隠すものなど何もないと清廉潔白を掲げるような白い塀が延々と続く。
白い大理石をカツカツと小気味いい音を響かせてさらに歩き続けると、風聖で最も権威ある研究施設、『風聖シャンディア学術院』が目の前に現れる。
シャンディア門から最初に見えた、巨大な塀が立派なアイアン門を取り囲む。
門の上部には浮き彫りでこう刻まれていた。
――智を渇望する者よ、この門を叩け。ここに集うは、時を紡ぎ未来を築く賢者なり――
かつてゼフィルド・カーヴェインも、この研究所に籍を置き、エヴァンの開発に携わっていた。
これから面会するのは狂気の天才。
定規を当てられたように背筋が伸びる。
ゆっくり息を吸い込むと、風に乗って薬品の匂いが鼻を衝く。
振り返れば、遠く、指先に載りそうな「シャンディア門」が見えた。
薬品の匂いと計算され尽くした街は、リリメルの育った華聖とは何もかも違っていた。
目抜き通りは研究所の正門で左右に分かれている。
左に進めば官僚施設の役所や聖風衛士団の支社、拘留所などの中枢機関。
右に進めば工場地帯や都市インフラを支える施設群。
今、向かうのはもちろん左の拘留所になる。
研究所の塀は視界の果てまで続き、その広大さはトリヴァラの街を丸ごと呑み込んでなお余りあるほどだ。
塀を横目に長い大通りを歩き続け、ようやく目的地が見えてきた。
拘留所は想像していたよりもずっと小さな建物で、隣にそびえるカルディナ衛士団庁舎の影に隠されるように建っている。
二階建ての質素なコンクリートの壁には余計な装飾もなく、代わりに実用的な大きな時計が掲げられていた。
規則正しく時を刻むその音は、学術都市の精巧さを象徴する。
針はすでに三時を指そうとしており、リリメルは少し駆け足になる。
エントランスへ続く道は植栽に挟まれていた。
その中央を通ると質素な木製の扉が両側に開かれ、中からひとりの男が姿を現す。
風衛兵の白い制服を身にまとい、腰には無骨な金属の輝き——エヴァンが装備されていた。
リリメルとアドガードが通路に差し掛かると、ちょうどその男と行き会う。
彼の視線はまずアドガードへと注がれた。
その目がわずかに細められ、リリメルへと移る。
「あぁ、アンタたちが噂の……」
男は懐からタバコを取り出し、一本に火をつける。
紫煙がふわりと舞い上がった。
「オレは聖風衛士団のオリバー・エルドリッジだ」
自然に差し出された右手に、リリメルは少し身構えた。
一度オリバーの表情へと視線を滑らせると、不惑を宿した強い深緑の眼差しがリリメルを射貫く。
差し出された掌が小さく動き、リリメルは突き動かされるように握り返した。
掌には長年武器を握ってきた硬いタコがあった。
その感触にリリメルの胸がほんの少し騒めいた。
「私は華教徒のリリメル・ベル。こちらは随人のアドガード・ウィキです。」
「あぁ、報告は受けてる。トリヴァラでは随分と活躍したそうじゃないか。それにしても……」
オリバーはしばらくリリメルを見つめ、次第にその表情を緩ませた。
「アドガードを連れ出しただの、月聖アルディス教祖に喧嘩を売っただの――逸話ばかり聞かされてたから、どんな豪腕な女傑かと思っていたが、普通の、いや、ずいぶん可愛らしいお嬢さんじゃないか。なんだか、拍子抜けだな」
からりと笑う顔に、リリメルの緊張もふっと和らいでいく。
「私も、聖風衛士団の方々はもっと……その、プライドの高い方が多いのかと思っていたので、握手を求められて驚きました」
「かもしれないな。オレは庶民出身だから、あぁ言うのは逆に難しいけどな」
そう言って肩を竦める彼の胸には、九つの星が輝いていた。
それは師団長の証。
「庶民出身で師団長だなんて、優秀なのですね」
リリメルは笑う横顔にほんの少しの警戒を抱く。




