002 アドガード
扉が重く閉まると同時に、外の光が断たれた。
石の階段は底知れぬ暗黒に沈み、空気はひんやりと肌を刺す。
湿った石の匂いが鼻腔を満たし、肺まで重くなる。
リリメルは胸の奥に緊張を覚えたが、すぐに深呼吸をして掌をかざした。
胸元の宝石が淡く光り、その輝きが彼女の掌に法術陣を映し出す。
陣は翡翠色の光……翠輝を放ち、小さな光る球体を作り出した。
その球体を掴むように両手を合わせ、そっと開くと、小さなランプが現れる。
青白い炎がそこに揺らめいた。
リリメルはランプを片手に持ち替え、胸に手を当てて大きく深呼吸をする。
ランプを持つ手を前へ進ませると、光が石段を舐めるように降り、長い闇を切り裂いた。
背後では扉の錠が重々しく落ちる音が響く。
一瞬緊張が走ったが、すぐに「……よし」と力強く口に出す。
少女の目は迷わず前を見据えていた。
少し湿った煉瓦の壁に片手を擦らせながら、一段、一段と階段を降りていく。
地上の喧騒が遠ざかり、代わりに自分の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。
(ここに八十年も……)
想像を絶する歳月の重みに、リリメルは喉の奥が渇くのを感じた。
――この先に
あのアドガード・ウィキがいる。
そう思うと、足が進むごとに心臓の音も早くなる。
階段を下りきった先
鉄格子の向こうに、ひとりの獣人がいた。
見開かれた青い瞳は、奇跡を見たかのように揺れている。
「――貴方が、アドガードさんですか?」
声がわずかに震えた。
鉄格子越しに佇む大男は、ピンと立つ狼の耳をこちらへ向けたまま動かない。
ランプの青白い炎が、彼の濃い茶色の毛並みを鈍く照らし、その巨体を形作る。
ランプの光に照らされたアドガードの瞳は、ガラスのように透き通り、鋭い光を放っていた。
彼がわずかに身じろぎするだけで、空気が震える。
八十年の沈黙を湛えたその佇まいは、時を凌駕していた。
枯れ果てるどころか、昨日まで敵を屠っていたかのような生々しいまでの威圧感を放つ。
「私は華聖の教徒です。
リリメル・ベルと申します。
――貴方に、ぜひ私の旅に同行していただきたいのです」
静かな牢獄に、アドガードの息遣いだけが響く。
アドガードは頬まで裂けた大きな口を開き、閉じ、言葉を探しているようだった。
鉄格子を強く握ると鋭い爪が甲高い音を立てる。
視線は自らの足元に落ちた。
耳が痛いほどの沈黙の中
――リリメルはただ、彼の答えを待った。
数秒後、低く、かすれた声が漏れる。
「――行く」
緊張を拭いきれない笑みが、リリメルの口元に浮かぶ。
「では、法術の鎖を付けます。両手を前に出してください」
鉄格子をすり抜けて伸びる長い腕。
その先の体毛に覆われた指の先、鋭い爪に思わず息を呑む。
リリメルは一歩近づき、羽織っていた白布を彼の手に掛けた。
胸元の宝石が再び光を放ち、別の法術陣を描き出す。
翠輝がアドガードの腕に走り、鎖のように巻きついては消えた。
「これで大丈夫です。鉄格子を開けますね」
壁に刻まれた法術陣に手を当てて、法力を流し込む。
鉄格子は縦に沈み、横へと消え、二人を隔てる障壁はなくなった。
ゆっくりと立ち上がるアドガード。
リリメルの頭は、彼の胸の位置にあった。
「……行きましょう」
ぎこちない笑顔を浮かべて、彼女は階段の方を振り返る。
二人の足音が石段に重なって響く。
闇と冷気に包まれ、ただ自分たちの呼吸と鼓動だけが聞こえる。
「怖くはないですか?」
リリメルが問いかける。
アドガードは前を行く小柄な背中に視線を向けた。
「――お前はどうなんだ」
「私は
――怖くありません。」
少女の表情は見えないが、声に迷いが滲んでいる。
頂上はもうすぐだった。
「俺は怖い。でも、ここにいるよりはマシだ」
驚いて振り返るリリメル。
数秒、視線が重なり合う。
アドガードは自嘲するように肩をすくめた。
「私も……本当は怖いです。一緒ですね」
ふと、彼女の視線がアドガードの頭で止まった。
先ほどまで立っていた狼の耳が、いつの間にか消えていた。
大きく開いた口も、牙も、爪も尻尾もない。
濃い茶色の髪は短く切られ、全身を覆っていた毛並みも滑らかな皮膚に変わり、そこに居るのはただ大柄な人間の男だった。
戸惑う彼女に、アドガードが低く答える。
「……獣人は、怖がられるからな。」
あまりに人間臭い気遣いに、リリメルの口元が自然に緩んだ。
期待は、確信へと変わってゆく。
無骨な足音が階段に響く中、ふとアドガードが口を開いた。
「その聖服、華聖の者だろ?華聖は宗戦に参戦したのか?」
「あぁ……いいえ。私は特別枠です」
リリメルはイタズラっぽく笑ってみせる。
空気が抜けるような、気のない返事をアドガードが返した。
その短いやり取りは、暗がりの重さをほんの少しだけ和らげる。
階段を登りきると、重厚な扉が道を塞いでいた。
黒鉄の表面には複雑な紋章が刻まれ、鈍い光を放っている。
扉のすぐ横には、小さな呼び鈴がぶら下がっていた。
リリメルは伸ばした手を一度止め、ふと振り返る。
階段の二段下に立つアドガードと、ちょうど視線が重なった。
「これから、長い旅になります。どうぞよろしくお願いします」
少女は元気よくそう告げ、そっと手を差し伸べる。
アドガードはわずかに戸惑い、しかし恐る恐るその手を握った。
リリメルの小さな掌を、アドガードの大きく節くれだった手が包み込む。
掌に伝わる温もりは不思議なほど心地よく、胸の奥にまで沁み込んでくる。
「……獣人に、こんなことをする奴はいない」
少し頬が紅い。
低く呟いた彼を見て、リリメルは満足げに微笑む。
そして再び扉へ向き直ると、迷いなく呼び鈴を鳴らした。
澄んだ音が、澱んだ古い空気を震わせ、静寂を塗り替える。
数秒ののち、扉の内側から重い音が響き、ゆっくりと開いていった。
隙間から差し込む、眩い光。
「……っ」
アドガードは思わず顔を覆い、細めた目で光を覗く。
牢獄の闇に慣れた瞳には、痛いほどの刺激だった。
それでも彼は、逃げずに光を受け止めた。
毛先がわずかに震える。
扉が開くと同時に、頬を撫でたのは湿った地下の空気ではなく、乾いた土と草の香りが混じる「外」の風だった。
アドガードの隣で、リリメルもまた眩しさに目を細める。
網膜に焼き付くような鮮烈な青空と、視界を埋め尽くす色彩の洪水。
長く閉ざされていた時間が、風に溶けて消えていくような錯覚さえ覚えた。
リリメルは一歩外に踏み出し、振り返る。
青白い灯火がふっと消え、自然光だけが二人を包み込んだ。
「さあ、行きましょう」
軽やかで揺るぎない声。
アドガードは光に晒された掌を見つめ、低く答えた。
「あぁ……」
その一言が、牢獄の時間を断ち切った。
二人は共に、光の中へ踏み出していく。




