028 最初の民
ヴィエラを見送った直後、リリメルは再び糸が切れたように倒れ込んだ。
アドガードが、その小さな背を抱き止める。
「……もう少し、休ませてもらってもいいですか」
掠れた声を最後に、リリメルは深い眠りへと落ちていった。
彼女の肌に残る内出血の斑点を眺めながら、アドガードは微かに眉をひそめた。
自分に施された回復法術は劇的に効いたというのに、何故かリリメルには効果が現れていない。
アドガードは壊れ物を扱うような手つきで、リリメルをテントの奥へと横たえた。
復興に励む、トリヴァラの喧騒が遠くから絶え間なく響く。
再びリリメルが目を覚ます頃には、空は鮮やかな朱に染まり始めていた。
テントの外へ這い出すべく、入口の紐を解いて夕風を吸い込む。
(……涼しい)
北風が火照った体に心地よい。
街の方からは、家々を修繕する槌音や賑やかな声が聞こえてくる。
ふと視線を上げると、屋根の上で作業を手伝うアドガードと目が合った。
もう、彼を怖がって石を投げる者など、この街には一人もいない。
その光景を見た途端、リリメルは安堵でふっと肩の力が抜けた。
(元気ですね。あのエネルギーは一体どこから……)
地面に手をつき、溜息を吐いた瞬間。
目の前に長い影が落ちた。
「目が覚めたのか」
(はやい……。さっきまで、屋根の上にいたじゃないですか)
その超人的な活発さに毒づきたくなる気持ちを抑え、項垂れている。
「……どこか、痛むのか?」
上から降ってきたのは、場違いなほど慌てた声で、思わず笑みが漏れる。
「どこも痛くありません。少し、疲れているだけです」
少し不貞腐れたように返すと、アドガードは「なんだそりゃ」と言いたげに眉間に皺を寄せた。
その不器用な表情が可笑しくて、リリメルの喉からくすくすと笑いがこぼれ出す。
そこへ、街の人々が続々と集まってきた。
「もう大丈夫なのかい?」
「お腹は空いてないか?」
「おい、お嬢さんが起きたぞ!」
口々に投げかけられる「ありがとう」「助かったよ」という真っ直ぐな言葉。
リリメルの胸の奥がこそばゆく、誇らしいような、けれど所在ないような不思議な感覚で満たされていく。
人ごみをかき分けて、カナとセレナが歩み寄ってきた。
「元気になったんスね。……本当に、良かった」
カナの声は安堵に震え、その目尻には涙が滲む。
彼女は両手でリリメルの手を包み込み、祈るように力を込める。
「トリヴァラを救ってくれて……ありがとうございます」
「皆さんがご無事で、本当に良かったです」
リリメルが笑顔を返すと、再び大きな歓声が上がった。
セレナが一歩前へ踏み出し、腕に抱えていた新しい服をアドガードへ差し出した。
「アドガードさん、これを……どうか、受け取ってください」
セレナの瞳は、ただ真っ直ぐにアドガードを見つめる。
照れくさそうに頭を掻きながら受け取ると、まだミシンの温もりが残っていた。
アドガードの握る指が繊細に動く。
「この前はひどいことを言って、本当にすみませんでした」
セレナは深く、深く頭を下げる。
その姿に導かれるように、周囲の住人たちも次々と頭を下げていく。
あまりの居心地の悪さに、アドガードはぼそりと呟いた。
「……どこも、そんなものだ」
だが、その独り言をセレナは聞き逃さなかった。
「どうして、助けてくれたんですか? 私はその直前まで、あなたに酷い言葉を投げかけたのに……」
アドガードはあからさまに眉間の皺を深くし、口を尖らせる。
「別に理由なんかない。助けられそうだと思ったから、そうしただけだ。
なんでそんなに理由が気になる。いちいち考えて動いてない」
拗ねた子供のように唇を尖らせるので、リリメルは堪えきれず吹き出した。
周囲の笑いも連鎖し、アドガードの顔がますます険しくなる。
「ああっ、そうだ! 支払いをしなくてはいけませんね。コルトが使えると伺いましたが……」
リリメルが慌てて財布を取り出そうとすると、セレナは目を丸くし、弾けたように笑った。
「そんなの、いただけるわけがありません!」
今度はリリメルの頬が赤くなって照れ笑いを浮かべた。
その横で、アドガードがニヤリと口角を上げたのを彼女は見逃さなかった。
不意に、カナが居住まいを正す、それに合わせて喧騒が凪のように静まった。
「リリメルさん、これはトリヴァラのみんなで話し合って決めたんです」
カナの顔は真剣そのもので、リリメルは息を呑む。
「今トリヴァラは難しい立ち位置です。中立国へ独立してすぐに宗教戦争が始まってしまい、結局、風聖の支配から抜け出せていない」
カナの言葉に、次々に不満が湧き上がる。
「決して安い金額じゃないのに、今回来た風衛兵を見たか?」
「ヘラヘラと話してばかりで、ろくに働きもしない!」
「私は、面倒なことを押し付けられたって笑っていて、ぶん殴ってやろうかと思ったよ」
誰もが怒りに管を巻き、拳を握りしめていた。
「その上、中立国としても新参者の私たちは『生存円環』にも参加できていません」
カナが唾を飲み込む。
周囲の人々も皆口を閉じ、空気が静まり返る。
民衆の熱だけが、確かにリリメルの肌に伝わっていた。
じっとカナの瞳を見つめる。
「どうせ賭けるなら、私たちはあなたに賭けたい」
カナは大きく息を吸い込み、それをゆっくりと吐き出すように言葉を紡ぐ。
「王になると言うのなら、最初の領土をここ、トリヴァラにされるのはどうでしょうか」
リリメルは周りへと視線を走らせた。
誰もが頷き、満足げに笑う。
胸の奥から、込み上がる熱を必死に飲み込む。
滲む涙を拭わずにカナの手を強く握り返した。
「私は必ずこの国の王になります。そして、トリヴァラにどんな災いが訪れても、必ず私が打ち砕くと約束します!」
その宣言は、凛とした声となって夕闇の広場へ響き渡り、一番星を一層輝かせた。
雨のような歓声の中、リリメルは皆に揉みくちゃにされながらも、晴れやかな顔で告げた。
「――そろそろ、カルディナへ旅立ちます」
別れを惜しむ声が上がるが、リリメルは照れ笑いを浮かべ、セレナの手に何かを握らせた。
それはローデン運河を渡るのに利用した、あの金色のチャームで、裏面には『02』の刻印。
「これは転送陣のチャームです。宝珠があれば、手紙を送れます。……困ったことがあれば、いつでも知らせてください。どこにいても、必ず駆けつけます」
セレナはそのチャームを胸に引き寄せる。
「ありがとうございます。」
セレナの目尻がほんの少し濡れていた。
リリメルは元気よく一歩目を踏み出す。
「――さあ、行きましょう!」
明るい声を張り上げ、トリヴァラの街へと大きく手を振る。
一つの国を背負い始めた若き英雄の旅立ちは、全身の痛みに小さく指先を震わせるものだった。
そして、この事件が緩やかに世界を動かし始めるとは、まだ誰も知ることはない。




